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ここでちょっとお遍路の基本的なことを紹介しておきたい。
四国88カ所霊場は空海が弘仁6年(815年)42歳の折に開創、お遍路の元祖は衛門三郎とも空海の高弟真済とも言うがいずれも伝説の域を出ない。平安末期には修行僧による四国の海岸沿いの霊場(四国辺地)巡拝が行われ、実際はこのあたりが始まりと見なされている。
本来88カ所は熊野詣での99王子に倣ったもので『数が多い』という意味とか。かつては霊場の数はもっと多く、88に固定化されたのは室町末期から江戸初期にかけて。但し今のような札所番号はなかった。それが登場するのは貞享4年(1687年)に出版された初のガイドブック『四国遍路道指南』。著者は巡拝20数回のベテラン遍路、真念法師なる人物。番号付けは彼の独断という。
1番は、霊山寺。これに対し空海誕生の善通寺こそ1番にふさわしいとの批判は今でもある。がしかし、版元は大阪。想定する第一義的読者は当然関西の人ということになる。江戸期、大阪・和歌山からの四国入り船便は徳島港が便利。霊山寺はそこから近い。空海が四国修行を始めたのは霊山寺からとする先行書物があったことも版元と真念の背中を押したに違いない。
かくの如く番号に余り権威はないが、お遍路の大供給地である大都市からの利便性、アクセスに着眼した商売感覚は鋭い。現代でも四国の主要都市は夜行バスで東京と結ばれ、休暇に合わせ部分区間をつなぐ区切り打ちでは、地方の人間より東京人のほうが遥かに便利にできているのだ。
この初の大衆向けガイドブックがヒットした。本が売れ、それを手にお遍路に出る人が増えるに連れ、札所番号も定着していった。そこに大きな実用性があったからである。
実際、弘法大師の遺跡を自分の自由好き勝手にめぐりなさいと言われても、修行僧でも修験者でもない一般の者は途方に暮れるだけだろう。スタンプラリーのチェックポイントのように巡拝の順番が札所番号によって明示され、次は何番のお寺で距離はどれだけと、目先の目標が日々の射程に入るからこそ、気の遠くなるような1200キロもの道程が歩けるのである。それがなければ、よほど心に重いものを背負っている人でもない限り歩き続けられるものではない。真念の番号付けによって初めて四国遍路は大衆に開かれ、彼こそ今日の基礎を築いた中興の祖と評価されている。
また霊場は1国1道場として特色づけられている。
発心の道場…阿波国(徳島県)1番霊山寺~23番薬王寺、23札所。
修行の道場…土佐国(高知県)24番最御崎寺~39番延光寺、16札所。
菩提の道場…伊予国(愛媛県)40番観自在寺~65番三角寺、26札所。
涅槃の道場…讃岐国(香川県)66番雲辺寺~88番大窪寺、23札所。
1国を打ち終えるごとにステージアップしてゆくこの組み立ても秀逸だ。徳島県を舞台にしたNHKの連ドラ「ウエルかめ」でヒロインが奮闘するミニコミ誌の名前が「ほっしん」だったことをご記憶の方も多かろう。言うまでもなくお遍路の『発心の道場』から採ったものである。
各札所の距離は、1番~10番のように札所間の距離が5キロ以内と短いところもあれば、23番~24番、37番~38番、43番~44番のように80キロを超えるところもある。各寺院の位置は深山幽谷あり、岬あり、街中あり…変化に富んで飽きさせない。
88カ寺の宗旨は当然空海の真言宗が中心だが、天台宗、禅宗、時宗、真言律宗の寺院もあるし番外では神社もある。つまり特定の宗教への信仰というよりも、弘法大師空海その人への崇敬で組み立てられている。ゆえに各札所には各寺院の御本尊をまつる本堂とは別に必ず空海をまつる大師堂がある。お遍路は両堂でそれぞれ納札・蝋燭・線香・巡拝勤行をあげた後、お参りの証として納経所で納経帳(300円)判衣(200円)お軸(500円)に墨書・御宝印を頂く。これがお寺の維持管理財源に役立っている。
(西田久光)
2010年11月1日 PM 12:10