雪渓寺の本堂前でまたまたミスター53と再会。ぼくらより一足先に勤行を終えて、これから34番種間寺に向かうところだった。「この季節、高知市と土佐市の境にある仁淀川大橋はものすごく風が強いから気をつけて。清滝寺には先にホテルに寄って荷物を預けてから行った方がいいよ」とアドバイスを頂いた。ベテラン遍路はありがたい先達さんである。
  雪渓寺を発つ頃には雨雲も次第に切れ暖かい陽が射し始めた。相変わらず足の小指は痛いものの、まずまず順調に6・3キロ先の種間寺に向けて進む。残り2キロ、突然強風が吹き始めた。天気予報の強風注意報は午後からと思っていたのに、嫌な予感がした。前日同様の向かい風。菅笠を脱って胸の前で押さえ持ち、踏ん張りながら歩くが、踏ん張るたびに小指に激痛が走る。わずか2キロに50分もかかってしまった。幸いなことに種間寺も雪渓寺同様道路と段差の少ない平地のお寺だった。お参りを済ませ、門前のヘルシーレストランで600円のカレーランチをいただき、1時間少々足を休ませてから10キロ先の清滝寺をめざす。
  風は相変わらず逆風。時速2・5キロくらいでしか進めない。仁淀川大橋は1・5mほどの歩道がついていたが、ミスター53の指摘どおり風は一段と激しくなった。橋長633m、菅笠が被れないどころか、お杖も宙に浮かせ前に進めようとすると着地する前に飛ばされてしまい、全く普段のようには使えない。止むなく小脇に抱え、足の痛みに耐えながら必死で渡る。
 ところが橋を越えて間もなく嘘のように風が弱まった。種間寺手前から仁淀川大橋あたりまでが風の通り道になっているのか、何はともあれ風がないのはありがたい。ビジネスイン土佐で30分休憩してから頭陀袋を持って3・3キロ先の35番清滝寺へ。リュックを降ろしただけで足の痛みがずいぶんと楽になった。
 市街地を抜け田園地帯に入る。200mほど先にミスター53の姿。ゆっくりと歩き、かすかにチリーンチリーンと澄んだお鈴の音が聴こえる。時々立ち止まってはこっちを振り返る。どうやらぼくら夫婦を先導しようと待ってくれているようだ。じきに追いつき、山の中腹の清滝寺へ一緒に登ることになった。
 清滝寺の本堂は唐風。屋根は銅板で葺かれ、そこはかとなく風格が漂う。納経所が閉まる5時までにはまだ1時間もある。ゆとりで勤行を終え納経所に向かおうとすると、本堂の脇奧の斜面に生えるミツバツツジが眼にとまった。鮮やかな赤紫色の花に惹かれ近寄るとツツジの手前にお地蔵さんが立っていた。その足許に寄り添う幼児ふたり。
 金属製の比較的新しいもののようだが、お地蔵さんの涎掛け、幼児たちの毛糸の帽子、衣服は風雨にさらされ元の色がわからないほどに脱け落ち、あちこちカビが浮かんで、ひどく薄汚れている。子供たちの顔は頬がふっくらとしてあどけなく可愛いが、どこかもの悲しげに見えた。ぼくは子供たちに引き寄せられ、その前にしゃがんだ。
 ひとつの幻影が浮かぶ。昭和20年7月28日、津大空襲後の市街地の様子を撮った1枚の写真。あたり一面の焼け野原、伽藍の影も形もなくなった津観音の境内に、破壊をまぬがれぽつんと独り高い台座の上に坐るお地蔵さん。やがて、空襲で親を失い住む家も身寄りもなくした戦災孤児が、一人またひとりとお地蔵さんにすがるように台座のもとに集まり、身を寄せ合って夜を明かしたという。
 あの時の戦災孤児たちが眼の前にいる。そして次の瞬間、60余年前の孤児たちは、今現在のイラクやアフガン、あるいは民族紛争や飢餓で苦しむアフリカの子供たちの姿に重なった。
 ぼくはお地蔵さんに、そして何よりもお地蔵さんの足許に身を寄せ合う二人の幼子に、手を合わせた。
 境内からは夕暮れの土佐市街、彼方の太平洋が一望できた。お寺に飼われている犬が女房になつき、背中モミモミをもっともっととせがんでいる。清滝寺に着いてから既に1時間、昼時を除き一つのお寺にこんなにも長く留まったのは初めてだった。 (西田久光)