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23日目、朝から雨。女房は頭が痛いという。二日酔い?本人は風邪と否定するが……。いずれにせよ疲れているようなので無理をさせないことにした。
今日の行程は当初の予定通り足摺岬西回りで民宿竜串苑まで27キロ。6時40分朝食。ロストおじさんに昨夜の非礼を詫びる。彼は打ち戻りルート。女房は10時までホテルに留まり、土佐清水市街までバスとタクシーを乗り継ぎ、昼に郊外の海の駅あしずりで合流。午後、再びタクシーで民宿に向かうことになった。
7時25分、合羽に菅笠、お杖の軽装で女房に見送られてホテルを出発。初めての一人旅だ。ここまで出会った夫婦遍路はなぜか皆さん奧さんが先導。女房は前は後ろから追い立てられるようで嫌とぼくを先に行かせたがった。結果、ぼくは絶えず後ろを気にしながら歩くことになる。その点、一人旅は自分のペースだけで歩けるから気楽。と、その時は思ったのだが……。
松尾で山越えの遍路道を通ったほかは海岸線の山腹を通る県道『ジョン万ロード』を進む。中ノ浜大橋から眼下にジョン万次郎の出身地、中ノ浜が見えた。意外と大きな集落だ。雨は小雨と大降りを繰り返すが、快調に進む。ただ西回りルートを行く遍路は2割程度と少ないせいか遍路小屋がなく、休憩は道端で立ったまま。これは辛かった。
市街地に入る橋の手前で女房の乗ったバスに追い越される。更にスピードを上げるやじきに足が重くなった。一人旅で知らぬ間にオーバーペースになっていたのだ。完全にエネルギー切れ。バス停の屋根付き待合所を見つけ、やっと座って休憩したものの回復せず、海の駅まで残り6キロに2時間もかかって前半のハイペースを帳消し。11時半、やっとの思いで道の駅にたどりついた。旅をここまで続けてこれたのは、女房の存在が自然とブレーキ役を果たし、時速4キロの安定ペースが維持されてきたからだと思い知らされた。
海の駅でミスター53とまたまた再会。地元の老夫婦と食事をしていた。知人だという。一昨日の民宿たかはまの手前の辻堂でも地元のお年寄りが到着を待っていて「おお、来たか!」と手を振って出迎えていた。歩き遍路53回ならではの四国人脈。さすがである。
女房と鯖カレーを食べ、たっぷり1時間半休憩をとって午後1時、本降りの雨の中を再び一人旅。
松崎海岸に出た時だ。1キロほど沖合に50隻ほどの漁船が群れていた。船に大きな動きはない。こんな雨の中いったい何の漁をしてるのだろう……。少し行くと道端の空き地に双眼鏡で沖を見るおじいさんと隣で傘をさすおばさん。消防の車も駐まっている。嫌な予感がした。「何の漁?」恐る恐るおばさんに聞いてみた。「漁やとええがよ。捜索よ」「漁師が船から海に落ちて昨日から捜索しとるが、今やっと見つかった」おじいさんが補足した。
消防士が一人、車から出てきて同じように双眼鏡を覗く。空き地の向こうは小さな漁港だった。「ここに伝馬も運ぶかよ?」「そうじゃろのぉ……」
遭難した漁師の遺体と小船(伝馬船)をここの港に曳航してくるらしい。二人の会話は沈痛で重苦しかった。ぼくにはかける言葉もなく、二人から少し下がって呆然と立ち尽くすばかりだ。雨は降り続く。漁船群は依然として動かない。ぼくは沖に向かって合掌し、二人に頭を下げ、その場をそっと離れた。
少し行くと昭和21年の南海地震で隆起した奇岩『化石漣痕』が続く海岸。立ち止まり、沖合に眼をやると漁船群が一斉に動き出し、思い思いの方角に散っていった。もう一度、合掌。
宿で漁民遭難を話す。女房はバスの中で運転手と乗客が話すのを聞いて知っていた。それによると、亡くなったのは幼子のいる若い漁師。足摺岬9キロ沖合で漁をしていた。風が出てきたので近くの港に避難しようとしたが岬の波が高く、止むなく迂回して別の港に向かう途中、連絡が途絶えた。遭難海域は黒潮に近く流れがあるため、遺体があがるのは極めて稀という。
亡骸は遺族のもとに帰った。それがせめてもの救いか……。 (西田久光)
2011年3月24日 AM 4:57