三角寺山門下の石段

 おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら
はらばりたや うん
 打ち始めの頃、巡拝勤行の中で一番手こずったのがこの『光明真言』。舌がもつれてしどろもどろ。唱えているうちに訳がわからなくなってしまうのだ。「また無茶苦茶言うとる」と女房から何度も指摘される始末。ところがこの漢訳サンスクリット語(真言)馴れるにつれて清音と濁音が綴れ織りのようになった音の連なり、リズムが何とも気持ち良く、唱えるほどに上質の音楽に思えてくるから不思議である。
 直訳すると『おん(オーム。聖音)釈迦如来よ、大日如来よ、阿如来よ、宝生如来よ、阿弥陀如来よ、 光を放て うん(フーム。聖音)』となるらしい。
 難しい高尚な宗教的解釈は横に置き、世俗の一凡夫であるぼくは単純に『担う役割、特色の異なる五つの
如来が、互いに響き合い共鳴しあって大宇宙に慈悲の光を放ち満たさんとする願文』と勝手解釈で、益々この真言が好きになった。
 41日目、曇りのち晴れ、予想最高気温22度。今日は松屋旅館から17キロ弱先の標高500m・65番三角寺(四国中央市金田町)を経て別格霊場椿堂(同市川滝町下山)に下り、更に翌日の標高910m・66番雲辺寺に備え行ける所まで行ってタクシーで街中の一野屋旅館まで引き返す計画(当初は椿堂の宿坊泊の予定だったが、現在はやってないとのことで急遽変更)。
 6時26分発。30分としないうちにママチャリのおばちゃんから伊予柑2個のお接待。更に伊予寒川のファ
ミマで女房のトイレ休憩兼昼食調達の間、表で煙草を吸っていたら軽トラのおばちゃんからお賽銭の足しに
と300円の現金お接待。以前、お遍路さんから色付きの納札をもらった。その後、車大破の交通事故を起
こしたが、奇跡的に怪我なし。お大師さんの御利益と感謝していると話す。ぼくの納札は初心者の白札だが
当然もらって頂いた。
 戸川公園から本格的な登り遍路道に入り、伊予三島の市街地を眼下遠く望みながら進む。11時35分、三角
寺の石段下に到着。山門は鐘楼を兼ね、合掌してゴーンと一突き。境内に入る。
 そこに光明真言の世界があった。不思議なことに女房も全く同じことを感じたようで「ほんとや、光明真
言や」と呟く。
  空の青、白い雲、鬱蒼としげる木々の緑にすっぽり囲まれた境内には、利休鼠の落ち着いた銅板葺きの本堂、大師堂。燻銀の光を放つ薬師堂、庫裏の甍。本堂の手前両脇からはお堂を隠すように大きく枝を延ばし
た桜の老木。満開の盛りを過ぎた花びらがひとひらふたひらと風に舞う。それら一切をやわらかく包む陽光
……眼前の森羅万象が光り輝きながら響き合い調和して華やかに、それでいてどこまでも静謐な温もりのあ
る光の曼荼羅。
 勤行をあげ納経してから境内の東屋で昼食をとる。時折、野鳥のさえずりや梵鐘が鳴り響き、一人ふたりお遍路や一般の方がお参りに訪れるが、光明真言の世界に乱れはない。むしろ闖入するそうした諸々も包み込んで一層穏やかな笑みを浮かべている。
 お遍路を終え50日ぶりに帰宅して写真をパソコンの画面に再生。そこにあったのは極々ありふれた何の変哲もないお寺の境内。あの時ぼくら夫婦が体感した世界は、雨の日も風の日もひたすら歩き続け、お参りし
続けた果てに授かった奇跡の一刻だったのか?何万枚の写真、何千時間のビデオでもあの感覚は再現できないだろう。ぼくらの記憶の中に極上の残り香として確かにあるのだが……。
 1時間半後、再び山門をくぐる。石段を喘ぎながら登ってくる一組の老夫婦。「もう一息。この先に光明
真言の世界がありますよ」と声をかける。するとご主人がパッと顔を輝かせ、振り向き奧さんに言う。「光
明真言の世界やって!」
 ぼくと彼のイメージが同じものかどうかは判らないのだが、何だか気持ちが通じ合ったような気がした。
 3時、椿堂着。朱印墨書の納経代はお寺の大財源なのだが、歩き遍路の納経はお接待でびっくり。「じゃ
その分改めてお賽銭を上げさせて頂きます」「いえいえ結構です」と断られた。
 4時25分、区切りの良い七田橋バス停からタクシーを呼んだ。行程は27キロだった。      (西田久光)