土井聳牙は津藩の儒学者で名は有格、字は士恭、通称は幾之助、号は松逕、のち聳牙と改め、別号は渫庵・不如学斎という。
 文化14(1818)年12月28日、津の西町(現・中央)に藤堂藩儒医、土井弘の次男として生れた。
 聳牙は幼少の頃から秀才で、その利発ぶりを示すエピソードが幾つかある。3歳の頃、町へ行き「麹」と書いた店の看板を見て「あの字は千字文(習字の手本書)にないが何と読むか」と問うたり、6歳の時には父の意に逆らって土蔵に入れられたが、半日ほど声も立てずコトリとも音がしないので父が見にいくと「太平記」を読みふけり父に気づかなかったという。
 10歳の時、父が江戸勤番中に病死、文政10年、神童といわれた19歳の長兄が早逝。12歳の聳牙が家禄を継ぎ、時の藩主、藤堂高猷の命により川村竹坡(尚迪)の門に入り、さらに文章を斎藤拙堂に、経学を石川竹崖に学んだ。
 17歳で藩主に「論語」の御前講義をおこない蔦模様(藤堂藩の紋)の単衣を賜わっている。しかし、あまりにも猛烈な勉強のせいで目の病気になり左眼を失明する。
 その後、聳牙は右眼も失明になるかとの心配から、書物を読めば必ず暗唱し、文章など二度読めば必ず暗記し、4歳から学んできた四書五経、唐宗八字文などどんな書でも出典を問えば「それはどの書の何巻何丁目にあり」と、即答したという。
 21歳で「資治通鑑」(中国北宗の司馬光が19年かけて完成した北宗前403年
から959年に及ぶ1362年間の通史)校正の責任者となり、途中、血痲を患いながら、弘化4(1847)年、12年かけた大業が完成する。「資治通鑑」校正の仕事を通じ歴史や地理に興味をもった聳牙は考証学(広く古書に証拠を求め独断を避けて、経書を説明する学問)を喜びとして一門を開きその学を創めた。
 その後、32歳から37歳までは藩主の侍読、講官として江戸勤番となり、安積艮斎、西島蘭渓、林鶴梁ら、時のそうそうたる多くの文人墨客と親交をもつことになる。
 ところが、安政元(1854)年4月、攘夷の開国の論議に直言したことが藩主の機嫌を損ね、突然、侍読を解かれ家録も20石減らされる。
 以後、50歳になって再び講官に復帰するまでの12年間、学術研究と塾生の教育
に専念。門人は全国各藩から集まり数百人に及び、明治政府の枢要な地位につく人など多くの門人が維新後各界で活躍した。
 また、その間に多くの著述をなし、「太平寰宇記図」「旧唐書地理志図」(宗・大宗時代の地誌)、40歳で書生に示す詩「示書生詩」、42歳の時には五つ並べの解説書「格五新譜」、津の海をテーマにした「贄崎観涛記」などを書いている。  さらに、49歳から隷書を学び、詩=香良洲を詠んだ「辛州」 花飛ぶ万点風の吹くに任せ 春脚忽忽として賞ずるには己に遅し 凋悵す辛州祠の表路 正に 紅尽き 翠(かわせみ)来るの時=を詠み、絵画では画竹を得意として、「渓山晩歩図」や「竹蘭石図」など、多くの山水や人物画も残している。
 明治元(1868)年、52歳の時、新政府から招聘されるが病気を理由に断わり、翌2年9月、藤堂藩有造館の第五代監学(館長)
に就任、同4年12月の閉館まで努める。 
 同8年、59歳で大患にかかり、自分で戒名をつくっている。「文窮軒潜光聳牙居士」、よい加減な技量で奇怪な行動をし、独りよがりではあるが、世に潜み隠れている人の微かな光りを難しい文章で顕彰してきた者と。
 確かに、聳牙は長身で大頭、鼻は高く大声で、着る物は粗悪、酒、煙草はやらないが、怒ると相手を打ち据えるまで悪口雑言を浴びせ、話し出すと止まらなかった。
 しかし、度量が広く、細かいことを気にせず、物事にこだわらず、過ぎたことを意に介さない、威風堂々とした気性であったようで、故・元三重短大学長の丹羽友三郎氏は、「用意周到、思慮綿密、謹厳実直で豪放磊楽、虚心坦懐が兼備された人」と評している。
 また、肥満の聳牙は暑さに弱く、夏になると塾生たちに水鉄砲を持たせ、庭の真ん中で全裸になって水をかけさせ、奇声を上げて走りまわり、これを見んものと近所の住民が押し掛けたとか、来客に対し下帯だけで兩刀を差して応じたとか、奇行が多かったと史記は伝えている。
 明治12年、中気(脳卒中)で半身不随となり、翌(1880)年には胃を患い旧病が併発、6月1日に永眠する。享年63歳。津の天然寺に葬られた。土井家の檀寺は南尚院で、墓石は南尚院公園墓地内にある。(新津 太郎)