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5世紀後半・雄略朝の頃、白山一帯はあちこちに温泉が湧出し、盧城部連すなわち温泉を司どる村主が枳筥喩であった。
当時、都から斎宮に遣わされていたのが拷幡皇女で、土地が変わりあまりにも田舎ぐらしで淋しいことや、都を想って食が細り、とうとう気欝になってしまう。
そこで、家城の湯が良いと知ったお付きの人々が皇女を連れて湯治に来る。しばらく滞在する皇女たちを、湯人として努め世話をしたのが枳筥喩の息子、武彦であった。
かゆいところへ手の届くように世話をしてくれる武彦に、皇女はいつか魅かれてゆく。
ところが、磯特牛なる阿閇臣国見が前々から皇女に横恋慕をしていて、自分も湯治と称して家城に滞在、なんとか皇女の歓心をかおうと手練手管を尽くす。
しかし、皇女には全く関心がなく、国見が言い寄れば言い寄るほど、武彦に魅かれてゆくのである。一方、武彦にとって皇女は雲の上の人であり下心など微塵もなくただただ心を尽くして仕えるのであった。
やがて、元のようにふっくらと元気を取り戻した皇女は名残を惜しみながら斎宮に帰ってゆく。
どうしても自分になびかない皇女に国見は一計を考える。武彦が皇女を侵し妊娠をさせたと根拠のない偽りの嘘をとばしたのでる。
この噂に驚いた父・枳筥喩は息子を呼んで問い正す。
「武彦、噂は本当か?おまえと皇女様の間に何かあったのか?」
「父上、ぜったいに何もありません。考えて見て下さい、たとえ私が皇女様をお慕いしたとしても、私と皇女様ではあまりにも身分が違い過ぎます。父上、信じてください」
「そうか、本当だな」
「本当です」
一時は武彦の言葉を信じたものの、この流言が朝廷に聞こえたら禍が己に及ぶことを恐れた父・枳筥喩は、武彦を盧城河(雲出川)に連れていき当時この地方で盛んに行われていた鵜飼の真似もさせて水中で魚を捕らせ不意をおそって殺してしまうのである(武彦は家城殺頭ヶ淵に討る。某所を飛落首と名づく。比淵西より東に到て三町餘あり、飛落首は東の端なり。寅の方三町許の岸に細流あり。土俗太刀洗の水と云。簗瀬の岸なり「地誌大系本」)。
一方、この流言は都にまで達し、これを耳にした雄略天皇は、ただちに使者をつかわして事の真偽を皇女に確かめる。
父・天皇の疑いと武彦の死を知った皇女は、
「私にはまったく身に覚えがないことです」
と、はっきり使者に伝えた後、身の証をたてようと神鏡を抱きさまよい出て五十鈴川を逆のぼりその川上に鏡を土中深く埋め、樹で首をくくって自殺してしまうのである。
天皇は皇女が行方不明となり、あちこちを捜させていたところ、五十鈴川の川上で四、五丈(12~15m余)の虹がかかりまるで蛇が立ち登ったように見られたので、その辺りを掘らせたところ鏡が見つかり、その近くで皇女の遺体を発見する。
そこで、遺体を腑分け(解剖)してみると、腹中に水がたまっているだけで妊娠の徴候はなく、単なる流言であったことがはっきりする。
このことを知った枳筥喩は、わが子の無実が明らかとなり、その嫌疑がはれたことにホッとしながら、早まってわが子を殺してしまったことを悔い、その噂を流した国見を見つけ打ち殺して、拷幡皇女と武彦の恨みを晴らすのである。
その後、枳筥喩は大和の石山神宮に逃れて神官となり、皇女と武彦二人の冥福を祈ったという。まだ日本に仏教が伝わっていない時代、神社がある種のかけこみ寺のような役目をしていたのかも知れない。現在も白山・家城神社の裏に「こぶ湯」と呼ばれる霊泉があり、悲しい物語りの当時を偲ばせる。
また、この悲話から雲出川が上古奈良時代には河魚の大きな漁場であったことが伺える。なお、雲出川の鵜飼は明治30年頃まで在続し、薪炭や農作物などの物資を河口まで輸送する舟運に使われていたと史誌は伝える。
(新津 太郎)(このお話は「日本書紀」雄略記と「白山町史」をベースにした一部フィクションです)
2013年1月31日 AM 4:57
三重大学の持つ知識を一般と共有しようと各分野の専門家を招き隔月ペースで開いている津市・津市民文化祭実行委員会主催の三重大学シリーズ第47回文化講演会?「発見塾」が26日、津リージョンプラザで開かれ、同大学院工学研究科助教の松浦健治郎さんが『みんなでつくる津のまちづくり』の演題で講演した。主管=津文化協会。後援=同大学、本紙。
松浦さんは、「21世紀は従来の行政主体の都市計画ではなく、行政と住民など多様な主体が得意な分野を出し合いながら連携して進めていく地域恊働のまちづくりへの変革期である」とし、四日市市楠町での『楠の宝探しマップづくり』事業や、『親しまれる四日市港づくりのためのワークショップ』事業、さらに名張市の『地域づくり委員会』の取り組みを実例として挙げながら、津のまちづくりに対する自身の考えとして、「市民などなるべく多様な主体の参画を得て地域資源を発掘することが重要。また、次につなげるためにも結果を分かりやすい形で情報発信していくべき」とした。
さらに、まちづくり事業を実施するためのマンパワーと財源の確保については、「自治会の協力やボランティアグループとの連携を高めることが大切。財源は助成金を確保したり、コミュニティビジネスなどの独自の収益事業をサポートする仕組みを作る必要がある」と説明した。
講演修了後の質疑応答では、会場から出された「津城復元によるまちづくりをどう考えるか?」との質問に対し、松浦さんは「津市は県都で三重の中心だが城下町の雰囲気が残っていない。今後、城下町の形を踏まえたまちづくりをどうやっていくのか、とても重要。特に津城跡エリアの空間をどう生かしていくのか、将来像を考えないといけない」と指摘。
また、「土地区画整理事業と町並み保存をどう考えるのか?」との質問には、「土地区画整理事業には町並みを壊すという側面がある。歴史的な町並みを壊してまで住環境を良くしていくことが果たして良いのか?私自身も問題意識を持っている」とし、歴史的資産の重要性を説いた。
2013年1月31日 AM 4:57
一、 伊勢の三国守
南北朝時代から戦国時代にかけて、伊勢・伊賀の国境、安濃郡長野村(津市美里町)に豪族の工藤長野氏が国守として栄えた。
「日本三大仇討」のひとつ、「曽我兄弟の仇討」で有名な鎌倉幕府の侍大将、工藤左衛門尉祐経の三男、駿河守祐長が安濃郡地頭に入国。第16代藤敦(具藤の子)まで約三百年存続。北の伊勢平氏の名流、関氏、南の南朝の名流、北畠氏と共に「伊勢の三国守」であった。
美里町桂畑の通称、城の台(標高540m)に長野氏城(国指定史跡)、伊賀街道を跨いだ北に東の城(196m)、中の城(200m)、西の城(234m)を本拠に北伊勢を支配。 室町時代には室町幕府の奉公衆(将軍に近く仕える御家人)をつとめ、一族には「長野衆」として雲林院・細野・家所・分部・草生の五家が中核、分家に川北・中尾・乙部・家所の四家、それに城は美里町の経ヶ峰・細野・井面・家所の四支城、芸濃町の椋本・雲林院・林・忍田・岡本・萩野・前山の七支城、安濃町の今徳・草生・安濃・連部・浄土寺の五支城、河芸町の上野・御幸・黒田の三支城計十九の城と安濃津港を中心に総勢五千(馬上五百騎)の兵で君臨した。
二、長野氏族と高い城
長野氏城は伊勢・伊賀の分水嶺にそびえる伊勢国で最も高い所にある城だ。
文永11年(1274)、祐長の嫡男、祐藤が豪古襲来の文永の役に築いた。工藤長野氏は鎌倉幕府の前線トリデとして支配統治した。
正長元年(1428)には北畠氏三代の国司、満稚が南朝の君主を奉じて挙兵。室町幕府を開いた際、工藤長野氏は幕府側に参加して北畠氏と激戦、満稚を津の岩田川畔で戦死させた。
また、戦国には永禄10年(1567)、岐阜から伊勢に侵攻した織田信長軍に抗戦し、翌々年には信長の弟、三十六信包を工藤長野氏第15代具藤の養子に入れ長野次郎と名乗らせる謀略に応じた。信包は津城を築く。
その後、天正4年(1576)、具藤は信長の手先に暗殺され、名門、工藤長野氏は遂に滅亡した。
三、工藤長野氏の残影
光芒揺れて幾星霜─。名門、工藤長野氏は滅び、本拠の長野村も市町村大合併で津市に吸収され、安濃郡も版図が塗り替えられ、消滅した。昔の光、今いずこだ。
伊勢の戦史をふりかえると伊勢平氏は西海長門の海に全滅し、北から織田氏の侵攻で名流の北畠氏も工藤長野氏も滅んだ。国盗り物語では無く国盗られ物語である。
そこで、工藤長野氏の残党を探してみると、「長野衆」の分部家が河芸町上野から江戸時代に近江に転封され、大名に残った一家がある。
高島市の大溝藩分部家二万石だ。河芸町の上野城にいた分部左京亮光嘉が、関ヶ原合戦の余波とも云える津城攻防戦で闘って高野山に逃れたのち、徳川家康に認められ、上野城二万石城主に任ぜられた。
光嘉は、関ヶ原合戦の翌年、慶長6年(1601)に上野城に入って間も無く病死するが光嘉の姉の子、雲林院家の光信が後継者となる。
光信は大坂冬夏の陣に大坂城外で、徳川方の武将、本田忠勝の幕下で勇戦。敵方の首六十もあげた戦功の人物だった。
光信は、慶長七年(1602)、滋賀県高島市の大溝藩二万石城主に転封、城郭に天守閣は建てなかったが、陣屋と美しい城下町を建設し、明治4年(1871)の廃藩置県まで16代二百七十余年生き残った。
高島平野と琵琶湖を支配し、子孫は有力な海軍を擁して水陸の交通を守り、また明治・大正天皇の乗馬の先生もつとめた。
他に長野衆随一の勇将、安濃城主、細野壱岐守藤敦(分部光嘉の実兄)は信長に抗戦し続けたのち、伊勢松坂城主、蒲生飛騨守氏郷に仕え、氏郷が会津若松に転封になると同行。
氏郷の死後、徳川家康に迎えられたのち、加賀の前田家に仕えた。
従って北陸路には細野氏の子孫がいる。
因みに、大坂冬夏の陣では、豊臣方、関ヶ原合戦では西軍に参戦した長野衆の家臣も多く、家所帶刀・中尾新左衛門・川北勝左衛門・雲林院兵衛らが破れて戦死、浪々の者も多い。
埼玉県・熊本県など浪々の子孫がいる。
とくに一族の旧臣では、慶長13年(1607)、伊予宇和島から津に入国した藤堂高虎に拾われ、のち無足人に取り立てられ、また紀州藩和歌山家の地士にもかなり多くの者が取り立てられている。
その数、約一千二百人、平素は農村で居住し、庄屋や山役人、鳥見役などを勤め、年に何度かは津城に呼ばれ、藩主のお目見えに接した。
いずれも大半が北畠・工藤長野両氏の子孫の末裔である。
いわば長野衆の遺産だ。明治維新の戊辰戦争で藩軍の中核となって活躍した者も多く、旧陸軍時代、久居三三連隊や和歌山二四連隊は勇敢で戦歴を刻んでいるが、戦国武史の名ごりと云うべきか。
なお蒲生家滅亡後、伊勢に帰国した武士が多く、長野村の名主の岡家、津市一身田窪田の国府尚直家(石水会館事務長)、津市北丸之内、桜水楼、岡昭家など名家が多い。
また、徳川家康は側室、清雲林院於奈津に津の町復興、伊勢商人の援助をさせているが、叔父に浪人から長野九郎右衛門に取り立てその長野氏の子孫は東京に住み、津市、松阪市にはその他の工藤氏、長野氏がいる。
(横山 高治 津市出身。「藤堂高虎」「伊勢平氏の系譜」「戦国於奈津の方」など著書多数)
2013年1月31日 AM 4:57