からくり人形「十段がえり」

老人図扇面 写楽筆

 (公財)石水博物館(津市垂水3032─18)で、科研費調査報告展『伊勢商人の文芸活動』が開かれている。
 伊勢商人の多くは、和歌・俳諧・国学・歌舞伎・浄瑠璃・能など様々な趣味を持ち、江戸や京、上方などの最先端文化を伊勢に引き込み、高い水準の教養を持っていた。
 平成21年度から4年間にわたり南山大学の安田文吉教授を代表とする8人が科学研究費調査「江戸時代伊勢商人の文芸活動の研究─石水博物館所蔵文献資料を手がかりに─」(基礎研究B)を実施。伊勢商人の幅広い文芸活動に関わる様々な新発見があった。
 同展では、その集大成として、研究成果を作品や資料を通して報告する。
 会期は4月7日まで。
 入館料一般500円、高校生以上の学生300円。開館時間は10時~17時(入館は16時半まで)。休館日は月曜(但し祝日の場合は翌日)。
 ▼同時開催(第2展示室)=所蔵品展「川喜田半泥子とその周辺 半泥子と川喜田家~木綿問屋の当主として~」。

シンポジウム開催 3月16日・津商議所ホールで

 「伊勢商人の文芸活動」開催期間中の3月16日13時~16時、津商工会議所1階の丸之内ホールでシンポジウム『伊勢商人川喜田家代々の文芸活動』が開催される。
 パネラーは、安田文吉(南山大学文学部教授)・飯塚恵理人(椙山女子学園大学文化情報学部教授)・
 パネラー兼コーディネーターは、安田徳子(岐阜聖徳学園大学教育学部教授)・神谷勝広(同志社大学文学部教授)・山田和人(同志社大学文学部教授)・冨田康之(北海道大学大学院文学研究科教授)・岡本聡(中部大学人文学部准教授)・神津武男(早稲田大学高等研究所招聘研究員)・早川由美(愛知淑徳大学非常勤講師)。
 聴講無料。参加申し込みは、電話で同博物館へ・先着申込み80名で締切。
 問い合わせ・申し込みは石水博物館℡059・227・5677。FAX213・5789。

 慶長13(1608)年、伊予今治から津・伊賀に入府した藤堂高虎公が先ず着手したのは、関ヶ原の前哨戦で焼け野原となった津市街の復興と津観音の再建、更に津城と伊賀城を最短距離で結ぶ伊賀街道の整備であった。
 それまでは上野経由で伊勢へ向かう参拝客だけでなく、津方面からの水産物や塩、伊賀方面からの種油や綿などが運ばれる道路は他藩(亀山藩)を通らなければならず、しかも加太峠など難所が多く、伊勢・伊賀両国の経済、生活の大動脈としては不十分であった。伊賀街道は津から橡の木峠と呼ばれた長野峠を越えて上野に到る全長約12里(約50㎞)の街道で八つの宿場が設けられ、現在の国道163号に沿う形で通っている。
 その伊賀街道も、幕末の動乱や維新における廃藩置県など政治空白とも相まって荒れ果て、旅人たちは難渋、特に長野峠にかかる山路には追い剥ぎが多発するありさまであった。これを見かねた伊賀阿波村(旧大山田村)の有志が、長野峠の整備を各関係機関に呼びかけ、明治13(1880)年より隧道(トンネル)工事が始まることになる。これに伴い伊勢側も、安濃郡南河路から片田、五百野から足坂、三郷から平木に到る三つの工区に分けられ、それぞれの工事が始まる。中でも、片田から五百野にいたる山路に新しい坂道をつける工事が難工事で、この区間における事業費の拈出や工事一切の責任者となったのが、当時五百野と足坂二村の村長を務める野田正風であった。
 弘化4(1847)年生れの正風は当時34歳、先ず正風が取りかかったのは、二村合わせて180戸への工事費負担金割りと、関係機関への寄付金依頼、工事計画と物資の調達などであった。
 当時の資料によると、沿道の村々の負担金は数百円から数千円とあり、当時の1円は現在の2万円として換算すれば、小さい村でも400万円から500万円、大きい村ともなれば4000万円から5000万円にもなる。
 さらに、工事は農繁期をはずして村全員の出合いとなり、その日程調整、組み合わせなど、初めての仕事に正風は、夜遅くまでランプの下で予算書や工程書などを書き上げるのであった。
 今までくねくねと縫い登っていた片田から五百野への山道を、なるべく曲がりを少なく、それでいて拡幅した道をつけるのである。夜提灯を持った人を並べて高低を計り、鶴嘴や鋤で土を起こし、畚や臾に入れて天秤棒でかつぎ土堤をつくった。
 山肌を削って、掛け矢で杭を打ち込み、厚板をはめ込んで山崩れを防ぎ、途中、大きな石に突き当たると、それを割るのに何日も費やしたり、溝を掘って土管を埋め、竹を裂いて蛇篭を編み、そこへ川原から拾ってきた小石を詰めて積み重ね、それを段々に積んで坂道を上へ上へと造成していった。
 ところが、秋になって台風が来襲、一夜にして削った崖を崩し、平らにした道の土を押し流し、坂の下に小山をつくってしまう。工事はまた始めからやり直しであった。崖を削り直し、そこへ節を抜いた竹を打ち込んで水抜きとし、流された坂道へは小石と砂利を敷き詰めて踏み固め、小山となっていた流された土を土堤の蛇篭の覆い土として活用、なんとか危機を突破する。
 かくして、2年目の冬を迎えた或る日、今度は地下水が吹き出し、止めようとした全員が水びたしとなって風邪をひく者が続出、しばらく工事を中断するなど、何度も何度も工事延期を繰り返しながら、明治15(1882)年春、さすがの難工事も完成する。
 しかし、正風はさすがにほっとしたのか、冬にひいた風邪をこじらせ寝込んでしまう。心配した村民たちが交互に訪れ、正風の容態を気づかうのであった。その時、三つあった野田家の蔵が一つになっていたという。正風は一言も説明しなかったが、工事費の不足をだまって自分で算段していたのであろう。
 そして、間もなく床上げした正風を村人たちが迎えに来る。何事かと完成した吹き上げの坂に来てみると、登り切った左側に白布のかけられた碑があり、うながされて正風が綱を引くと「道路開鑿記念碑」と掘られた大きな石碑に、「明治15年7月建立 五百野人民一同」とあり、発起人7名の中に野田正風の名も刻まれていた。「ありがとう…」村人たちの手をとってしばし感涙にむせぶ正風であった。
 かくして明治18(1885)年、長野隧道が完成、翌19年、全線開通を祝う式典が三重県知事も出席して長野峠で挙行され、トンネル横に建立された「記念碑」にも野田正風の名が刻まれている。その日、関係する村村では花相撲が催され、夜には花火が打ち上げられ、日の丸をふって提灯行列で祝ったと、時の「伊勢新聞」は報じている。
 野田正風、明治42(1909)年10月9日没。享年63、五百野西方寺に葬られた。(この話は史実をもとにしたフィクションです)
 (新津 太郎)

 大規模地震の発生が危惧されている昨今、いざという時のために家族の安全確保など事前の準備が必要だが、ペットの避難・防災も重要な要素。
 そこで(公社)三重県獣医師会と三重県動物愛護管理推進協議会・三重県の3機関は2月24日14時~16時半、メッセウイング・みえ2階大研修室で「ペットと飼い主のための防災セミナー」を開く。 
 災害発生時に家族とペットが安全に避難するために飼い主としてどのような備えが必要なのか?いつ発生するとも分からない災害に備えて、ペットの防災対策について学ぶ。
 講演会では①「被災地に学ぶペットの防災対策」…講師・(公社)日本愛玩動物協会理事の平井潤子氏。②「災害に備えた犬との暮らしについて」…講師・鈴鹿短期大学特任助教の山越哲生氏。
 参加無料。定員120名で誰でも可。
 参加希望者は所定の用紙に必要事項を記入し、FAX059・224・2344、または郵送(〒514─8570、津市広明町13三重県健康福祉部食品安全課)、メールでの申込みはshokusei@pref.mie.jp
 問い合わせは同課℡059・224・2359(平日8時半~17時15分)。

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