長い時を経て遷座した仏画

国府阿弥陀

 津市大門の恵日山観音寺(津観音)内にある大宝院の本尊「国府阿弥陀」は伊勢神宮の天照大神の本地仏(同一存在)として江戸時代には国民的な信仰を集めていたが、その姿を描いた江戸期の仏画が兵庫県で見つかり、長い時を経て同院に還座した。この画を江戸での出開帳(本尊の出張)の際に祀っていたことを示す資料も一緒に見つかっており、伊勢神宮の式年遷宮の年に津観音を盛り上げる力にもなりそうだ。
 現在は観音堂内の正面左側に祀られている「国府阿弥陀」は、永禄11年(1568年)に戦火で焼失していた大宝院を織田信包が観音寺境内に再興した際、現在の鈴鹿市国府町にあった寺院から移し本尊としたと言われている。神仏習合の中で光を司る神性が伊勢神宮の祭神・天照大神と共通することから本地仏とされ、伊勢神宮参拝が一生に一度のビッグイベントだった江戸時代には「阿弥陀に参らねば片参宮」と言わしめるほど信仰を集めた。そして、伊勢まで足を運べない人のために江戸や大阪で出開張も行っていた。
 このたび還座したのは、その如来像の姿を写した仏画で、津観音住職で大宝院院家の岩鶴密雄師の下に昨年末頃、仏教芸術に造詣の深い知人から「この仏画は元はそちらの寺にあった物なのでは」という連絡があった。知らせと共に送られてきた画像を確認すると神々しくも穏やかな表情で描かれている仏の上には「勢州安濃津国府阿弥陀佛」の文字が添えられており、画と共に残っていた文書にも大宝院の塔頭(子院)の一つである千王院が四条流を開いた呉春の最古参の門人で仏画師として活躍した紀廣成=1777年~1839年=に描かせたことなどが記されていた。更に寺に記録として伝わる嘉永6年(1853年)の江戸での出開帳の際、この画を将軍や諸大名の前で披露したということまで分かった。
 岩鶴師もこのような画が存在することは全く知らなかったため、兵庫県尼崎市まで赴き、実物を確認。その後、持ち主と交渉の末、晴れてこの画が津に戻ってくることとなった。岩鶴師も「仏様が津に帰りたがっていたのだと思う。寺のイベントに合わせ環座法要をしたい」と喜ぶ。
 この画が津を離れた時期は不明だが明治初めの廃仏毀釈の頃だとすれば、約140年ぶりの還座で、20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮のこの年というのもドラマチック。10月に向け、全国から観光客が伊勢神宮を訪れる中、津観音を盛り上げる力にもなりそうだ。