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2013年5月
「社会の問題化を考える会」公開討論会が26日14時~16時半(受付13時半)、津市桜橋の三重県教育文化会館本館6階多目的ホールで開かれる。主催=青少年育成キャリア教育支援ネット。後援=津市教委、松阪市教委、四日市市教委。
近年、社会問題化している青少年の危険行動に、いじめ、自殺、不登校、薬物乱用、ネット書き込み、などがあるが、中には想像を絶する残酷な行為も見られる。主催者は「これは大人社会の『市場経済の原理(お金が一番)、『情報過多(携帯・メディア)』、『地域教育の低下(手本がない)』が起因している。今こそ、子供達に知識や技術、人間として生きる力、心の力を身につけさせる必要性があります。参加者と共に地域社会のいじめを考えましょう」と呼びかけている。
内容は、津市立中学校教諭による基調講演「キャリア教育について」のほか、パネルディスカッションもある(パネリスト…学校・教育・家庭・企業・行政関係者。コーディネーターは津市立小学校教諭)参加費1000円。当日申込み可能。
問い合わせは事務局℡津226・3085、FAX226・3105。
2013年5月23日 AM 4:58
森村竹軒が山のような蔵書を持って突然郡山の家へ帰って来たのは大正12(1
923年)8月末のことであった。何事かと驚いた森村家の人々を更に驚かせたのは、帰省して1週間後の9月1日正午に起こった関東大震災である。
竹軒は前年の大正11年の冬至にこれを予知していたのである。冬至の日に、国家の大事や吉凶を占うことを例としている竹軒の卦に、「天と地が一つとなり、自分はそれにはさまれ、身動きがとれなくなる」と、天地の変動、大勢の人の死、大きな災いなど、ただならぬ卦が出たので、早速、関係団体や知人友人に連絡、当時易学で最高の権威があった「陰陽新聞」に発表したのである。
この関東大震災予知は、易者として森村竹軒の名を全国に知らしめることになる。
森村竹軒、本名は小田二郎、明治2年(1869)年5月3日、一志町大字井生の小田覚之丞の二男として生まれた。名は順、字は敬直、一志の大井小学校、県立津中学校を卒業後、奈良県庁に就職する。
郡山市の下宿が縁で人柄を見込まれ、同市の森村平七氏の養子となり雪と結婚、二男一女にも恵まれる。夫人の雪は雪蘭と号し、後に「和州遠山流盆石」の家元となった人である。
竹軒が易と初めて係わったのは、休暇で故郷の一志に帰るため、国鉄津駅から歩いて岩田橋に差しかかった時であった。「兄さん兄さん、あんたに女難の相が出てるよ」と、一人の大道易者に呼び止められる。「えっ、私に…」、そんなことがある筈がないと腹を立て、一志への道を急ぐのであった。
ところが、実家へ帰ってみると妹が結婚のことで悩んでおり、ぜひ、兄の竹軒に何とかしてくれという。休養のため帰った実家であったが、竹軒は東奔西走して何とか話を丸く収め、妹は無事嫁ぐことになる。そこで、易者の言った女難は自分自身のことでなく、妹のことであったのかと、彼はその後、易道に魅かれてゆく。
明治30(1897)年、易道への思いが強くなり、森村家の許可を得て単身上京、慶応大学に入学し易学を専攻する。しかし、大学のそれは竹軒の求める易とは乖離したもので、間もなく大学を中退、頼れる師のないまま独学で学理と事象の関係などを判断、苦学し努力して、その道を極めてゆく。
そもそも易とは、中国古代におこった占の一種で、亀甲獣骨を火で焼いてできた裂け目の形によって吉凶を判断する方法を卜といい、卜法の口述・記録を占とよんで、判断の根拠となる原則がつくられたが、これが次第に理論づけられて易がうまれその根本原理を八卦と称した。易の字義はトカゲの象形といわれ、トカゲの体色が周囲の状況に応じて変化する意味を転用し、宇宙の万障が変化する自然の理法にのっとって人事諸般の対応策を説こうとするものである(参・小学館・百科辞典)。
そして、易学は一年の計を冬至にはかるので、竹軒は毎年冬至の早朝に国の吉凶、政治の変遷や経済の動向などを占い、その出た卦を親しかった後藤新平や斉藤実、千葉胤月など、時の大臣や多くの名士、文化人、経済人といわれる人たちに伝えてきた。
そして、大正12年におこった関東大震災予知の的中は、さらに竹軒の易者としての地位を不動のものにしたのである。
大震災のあった9月下旬、東京より陰陽新聞社社長の松浦東洋が大和郡山に竹軒を訪れ、上京をひたすら懇願する。また、在京の友人知人からも上京を促す手紙が多く寄せられ、ついに竹軒も重かった腰を上げ、東京駒込に居を移し篇額に「洗心学堂」と揮毫する。
その後、斉藤内閣に関係し、「二・二六事件」発生の予告をしたり、時勢を憂い「易経専攻書院」を設立、国家社会に役立とうと日夜奮闘努力するが、志し半ばの昭和9年(1934)、病死、郡山市の三松寺に葬られる。享年66。
三松寺境内に頌徳碑があり、建碑者の一人、宮中御歌所寄人・千葉胤月が歌を刻している。
〝身をわすれ すめらみ国の道をとく 人は君よりなかりしものよ〟
竹軒の清廉潔白な性格と高い品性の人となりは、精緻な占いと共に多くの人に惜しまれたのであった。
もし、彼が今の世にあれば、3・11東日本大震災や尖閣列島・日中問題なども的確に予知し得たであろうか。(新津 太郎 参考・一志町史)
2013年5月23日 AM 4:57