入院することになりました。病院長は昔からの友人なので心強いです。病院内の合言葉は「ありがとう」と笑顔で満ちています。なんとなくパワーをもらった気持ちになりました。
 宿命は生まれもっての天から授けられたもので、運はその人が作っていくものだと云われています。
 運といえば、来年のNHK大河ドラマは「軍師黒田官兵衛」です。もう一人の軍師、竹中半兵衛と共に豊臣秀吉に仕えて〝両兵衛〟といわれた一人です。
 竹中半兵衛は病弱で若くして才能を惜しまれながら軍配・軍扇を黒田官兵衛に形見として残してこの世を36歳で去っています。そのあと、日の出の勢いをもった秀吉の後押しをしたのが黒田官兵衛です。彼は戦国時代の多くの戦いの采配を振り、秀吉を勝利者へと導いていったのです。
 そして初代津藩主、藤堂高虎は豊臣秀吉の弟秀長の家臣となり多くの戦いに参加しています。ただこの二人の違うところは、官兵衛は天下を見すえていたが、秀吉に才気をすべて吸いとられた軍師であるといえよう。知略が冴えすぎて、それ故にのちに秀吉に疎まれて九州の一国(筑前)に追いやられたのです。
 運は秀吉に、家康に味方しました。官兵衛はのちに心おだやかに「人生は風の如し、水の如し」の言葉から如水と号して59歳でこの世を去りました。
 これとは逆に、高虎は常に二番手に控える気持ちの持ち主で、徳川幕府の家康、秀忠、家光三代の将軍に信頼され「わからない事あれば高虎に聞け」とまで云わしめています。
 官兵衛より10歳年下の高虎は彼を信奉する一人で戦い方や築城術を倣っています。宇和島の牛鬼祭は官兵衛考案の亀甲車が基になっていると云われています。 生まれ持った性格がその人を形成していくものなのでしょう。官兵衛の先祖は近江国を追われて彼の三代前の高政の時に備前国邑久郡福岡(現・岡山県瀬戸内海市長船町福岡)に住み、更に姫路に移り重隆(高政の子、官兵衛の祖父)の時に、目薬「玲珠膏」を売って財をなしました。
 小豪族となり、更に姫路城の守将となります。官兵衛は姫路城に天文15年(1546)11月29日に生まれています。幼い時から姫路城下の賑わいや世の中の情勢を身をもって知り生きる術を学んでいます。 
 高虎は近江国犬上郡在士村(現・滋賀県甲良町)に弘治2年(1556)1月6日に生まれています。一郷士(自分の力で生きていく一さむらい)として良き主君をもとめて(この時代は武士が主君を捜し求めるのが当たり前)7回程替えています。常に二番手として主君には誠意を持って仕えています。
 戦い(関ヶ原戦など)済んで、共に一国の城主になり、藩ではよい政治をしています。官兵衛は人の意見を広く聞こうと異見会を行ったり、領民との会話に出かけたりしています。物事への心構え等がいろんな伝記に書き残されています。又、高虎の考え方、生き方は家訓や「高虎公遺訓二百ヶ条」にもうかがい知る事ができます。
 さて、私の乗った車椅子の後ろで声がしました。退院される患者さんが「いろいろとありがとうね」と笑顔で看護師さんに礼を言って挨拶をされていました。その看護師さんは、嬉しそうな顔で「お礼を言って下さった時、お世話させてもらって本当によかったわ」と私に言ってほほ笑みをわけて下さいました。
 運は人それぞれに心の持ち方で開けて行くのでしょう。天の采配やその人の心のあり方でいかようにもなります。自分を信じて明るく生きよう!
 「寛ちゃん(病院長)によろしくお伝え下さいね」と病院を後にしました。私は車の中で空を見上げて「ありがとう」とつぶやきました。
 (椋本 千江 全国歴史研究会・三重歴史研究会及びときめき高虎会会員)