NHK大河ドラマなどでお馴染みの「坂本竜馬」が机にもたれるようにして写っている肖像写真がある。これは、上野彦馬が長崎で開いた上野撮影局で撮影したもので、彦馬は高杉晋作や桂小五郎ら幕末から明治にかけて、志士をはじめ内外の著名人を撮影し、また、後進の育成に努めたことで「日本写真の祖」と呼ばれる人物である。
 この上野彦馬と鍬次郎が初めて出会ったのは安政5(1858)年、長崎の医学伝習所であった。
 堀江鍬次郎、諱は忠雍、号は公粛・松潭、後に通称を宗平と改名する。天保2
(1831)年、江戸藤堂藩染井の藩邸で津藩士堀江忠一の次男として生れた。
 9歳の時、雨で閉め切った雨戸のふし穴から差し込む光が、障子に竹の葉を逆さまに映し出す不思議を、父に尋ねたというエピソードが残っている。後に写真技術を研究することになる鍬次郎の未来を暗示しているようで面白い。 
 嘉永4(1851)年4月、兄が家を出て他家を継いだため、20歳で堀江家を継いで津藩につとめ、150石を給され、後に20石加増されている。やがて、津に戻った鍬次郎は藩校・有造館でオランダ語や西洋文化、技術、数学を学び、さらに、西洋の大砲を打つ技術を修得、嘉永9(1856)年、校長斎藤拙堂のすすめで、11人の若い侍たちと共に長崎へ留学することになる。
 鍬次郎は津、長崎、江戸の間を一生のうちに三度も往復し、天誅組の乱にも出征、武術は剣、槍、馬術、騎馬、西洋砲術を学び、築城、化学にも長じ、その間、大小姓、刀番、蘭学教頭、郷徴兵指揮の役職についている。
 鍬次郎の短い一生の中で、特筆すべきは長崎で当時最先端の西洋兵学、化学を直接オランダ人から学ぶという好運に恵まれたことであろう。これが舎蜜局必携著者の上野彦馬と結びつくことになる。
 安政4(1857)年、26歳の鍬次郎は幕府が開設した長崎海軍伝習所に津藩から西洋兵学を学ぶために派遣される。
 ここで彼は「騎兵砲隊築城諸項」を研究し、同時に、海軍伝習の一環として設けられた医学伝習所でオランダ人医師ポンペから舎密(セイミと読み、化学の旧称でオランダ語ではchemic)を習うことになる。
 運命的な出会いをした鍬次郎と彦馬は、密舎学を学ぶ蘭書の中に写真術についての記述を見つけ、関心を抱いた二人はそれに取り組み研究に没頭してゆく。
 カメラや薬剤の製造に取りかかったものの、硫酸やアンモニア、青酸カリの精製に悪戦苦闘し、その原料となる牛の血や骨の悪臭に奉行所へ訴えられたこともあったという。
 安政6(1859)年、フランス人の写真家ロシエが来日、長崎で撮影を行ない、二人はロシエに最新の写真技術を学ぶとともに、彼の持つ写真機の優秀さに驚嘆、時の藩主藤堂高猷に願い出て150両(現1000万円くらい)の大金で最新の写真機材一式を購入する。
 万延元(1860)年、長崎留学を終えた鍬次郎は彦馬とともに写真機一式を携えて江戸の津藩邸に帰り、藩主をはじめ数多くの人物を撮影し、写真師としての腕を上げてゆく。翌万延2年、参勤交代で高猷とともに津へ帰藩し、藩校有造館で蘭学や舎密学(化学)を教えることになる。そこで講義に教科書として、鍬次郎校閲、彦馬抄訳の「舎密局必携」前編3巻(中、後編、付録は未刊)を藩の援助で刊行する。
 当時、最先端化学技術を日本語で著わした貴重な研究書として、江戸や京都、大阪でも発行されたと史書は伝える。
 鍬次郎は「舎密局提携」の序文で、国を強くする手段として化学技術進歩の必要性を説き、また、化学技術は国を富ませる人々を新しい方向に導くものだと言及している。
 その後、彦馬は長崎に帰郷し上野撮影局を開業、日本初の職業写真館師となった。
 一方、鍬次郎は有造館で講義を続け、文久3(1863)年の夏、尊皇壤夷による武力蜂起「天誅組の変」に鉄砲隊を率いて出兵、大和の宇陀郡で西洋式鉄砲の威力を発揮させるなど藩士としての勤めも果たしたが慶応2(1866)年に、病に倒れ36歳の若さで帰らぬ人となる。常に「死んでも恩師につかえたい」と願っていた鍬次郎は、津市栄町・四天王寺、斉藤拙堂の墓に並んで葬られた。「君を知る人も知らぬ人も皆君の死を惜しんだ」と墓碑銘にある。
 毎年6月1日、写真の日には、三重県カメラ商組合の人々によって供養が営まれ、法要はもう50年以上も続けられているという。 (新津 太郎)