救急車の音が聞こえた。「誰かが心臓発作でも起こしたのかもしれん」と夫が言う。「ちょっとした火傷や切り傷で救急車呼ぶ人もいるよね」と私。何事も悪い方へ考えたがる夫と、楽観的観測が過ぎる私。
 「救急車の音を聞くと、今度は自分かなと思う」と夫は言う。「人はそう簡単に死なないもの。心臓の病気でも治療で普通の生活に戻れるわ」と私。考え方の違いは大きい。
 それでも終末期医療についての考えは一致している。自分に快復の見込みがなくなったなら、延命させるだけの治療は止めてほしい。死なない人はいない。死を受け入れなければならない時が必ず来るのだから。
 思わぬ事故に遭ったり、病勢が進んだり、高齢になったり、原因はいろいろだろう。その結果、意識もはっきりしないまま、何本も管をつながれ、栄養と水分を与えられて水耕栽培のように生かされるのはまっぴらだ。
 その時には、自分の意思も表わせないだろうから、夫婦で確認し合っている。先だっては、子どもにも伝えておいた。認知症になってしまったら、その意思を伝える事を忘れるかもしれない。早いにこした事はない。
 子供は神妙に聞いていた。「水耕栽培とはうまいこと言ったね」「そう、植物のように栽培されるがままになったら」まだまだずいぶん先の事だと思いたいが、いつかその日が来るかもしれない。 (舞)