可愛らしい笹飾りなどの和小物

 津市久居中町134─35番地にある和紅茶(国産の紅茶)をメインとする紅茶の店「茶寮 多喜」では併設のギャラリーで、30日まで、和小物の『七夕展』を催している。
 同店は、定年退職を機に名古屋市から帰郷した増田多喜子さんが、自身も大好きな和紅茶をくつろぎながら味わってもらいたいと、昨年、自宅でオープン。
  今展は、佐世保市近郊でギャラリーを運営する森園美智子さんの協力で実施した。約20名の作家が制作した古布のちりめん細工の笹飾りや人形、押絵のタペストリーなど夏らしく趣き深い和小物を展示している。
 営業は10時~16時、水・木曜定休。駐車場は店向かいのNO1~4。問い合わせ津256・3135。

「大門街中バル」のイメージ図

 土曜の夜は大門アーケードが洋風居酒屋に変身!
 津観音・だいたて街の会は、8月3日・10日17時~21時、だいたてアーケード内(大門交差点付近~三宅医院前まで)で、商店街活性化策の一環として「大門街中バル」を開く。
 「街中バル」とは、店舗の軒先で飲んで食べて楽しんでもらう集客イベントのこと。全国的な流行となっている。
 今回は〝大人の夜店〟をキーワードに、ビールを1杯500円で販売するほか各種アルコール飲料、ソフトドリンクをはじめ、居酒屋メニュー的な様々な食べ物を用意。
 同会では、「アーケードを通り抜ける涼しい夜風を感じながら、楽しく、美味しい時間を過ごして頂きたい。盛況ならば今後も継続的に開催していくことも考えている」と来場を呼びかけている。
 問い合わせは津市大門大通り商店街振興組合℡059・223・0090へ。

 西田半峰、本名「武雄」は、明治27年(1894)
一志郡七栗村字森(現・津市久居森町)に生れた。
 6歳の時、横浜に住む母の従兄弟から養子に迎えられ、幸福な少年時代を過ごす。小学校を卒業後、横浜商業高校に入学、在学中から好きだった絵の勉強を始め、第8回文部省美術展覧会(文展)に水彩画「倉入れ」が入選する。
 当時の文展はかなり高い権威があり、西田本人は当然、美術学校への進学を希望する。しかし卒業後、父の強い反対に遭い、しかたなく、本郷洋画研究所に入り、自活しながら絵の勉強に励んでいくことになる。
 この頃、西田はエッチング(銅板画技法の一つで、ろう引きの銅板に針で描いた線画を酸で腐食させて原版とする凹版印刷。また、その技法で印刷した絵画。腐食銅版画)の魅力に取り付かれ、研究に没頭してゆく。当時、エッチングは知る人も少なく、道具類も外国から取り寄せなければならなかった時代で、彼は様々な苦労をしながらエッチングの作品を試みるのである。
 かくして、大正12年(1
923)の関東大震災後、西田はエッチング普及のため「室内社画堂」を開店、画家の個展を積極的に開催し、現在の画商が持つ要素となる写生旅行や、展覧会準備のために必要な資金を貸す一種の質屋のような金融機関をつくるなどの活動を行ったのである。まさに、西田が洋画商の草分けといわれる所以である。
 また、エッチングに芸術家としてのあり方を見い出した西田は、画商の仕事と平行してエッチングの普及に奔走、全国各地を巡回してエッチング講習会を開催し、さらに、「エッチングの描き方」を出版、昭和7年(1932)には、雑誌「エッチング」を創刊、最盛期には2500部、その後、11年間で125冊を発行している。
 こうした西田のエッチング普及拡大の活動に刺激され、彼の門下から多くの若い銅版画作家が育っていった。
 しかし、時代は戦争へと移り、大政翼賛会の指導で日本版画奉公会が結成され、雑誌「エッチング」も「日本版画」に改題される。そしてそれもやがて廃刊となり、室内版画堂も空襲を受け焼失してしまう(半峰という名は、日本版画奉公会の略称で「版奉」をもじったものである)。
 戦災で何もかも失った西田は郷里の久居に疎開。昭和20年(1945)、終戦となり以後、友人知人らによる帰京への招きも断わり続け、半ば隠遁生活を送りながら、昭和27年(1952)1月1日から5万枚の葉書絵に挑戦する。昭和36年(1961)7月病に仆れ、亡くなる直前まで書かれた絵や狂歌の葉書絵は2万6744枚に達したという。
 ここに、「思い出の西田半峰のハガキ絵より」その一部を紹介する。
 ▼「日本負けたを知らずに、死んだ墓に詣でる人もなし」
 ▼「敗れても骨だけ残る日本かな」(うちわの絵とともに)
 ▼「鬼にふた色ありときくが、近頃出るのは赤ばかり」(これがほんとのオニモツ)
 ▼「講和になったらどうしょう、せんそうほうきではきだして、神や仏のすすはらい、燈明あげてもう一度、高天ヶ原の鈴の音や、諸業無税の鐘の音や、永世かけた中立を、祈る理想の旅姿。講和になったらどうしょう、赤と青とでそめわけた、武装国家の板ばさみ、敵と味方のへだてなく、大和なでしこさくらばな、パンパンガールに不二の山、観光ホテルに真珠貝、文化国家の粗製品。講和になったらどうしょう、独立自損の勘定は、土地を失い人が増え、もらい米して金を借り、デモクラシーの早変わり、民権金権ところ天、骨のないのが自慢なり、ああ火のもとにご用心」
 ▼「行水のたらいが浮かぶ青田かな(老人が裸でたらいに入っている絵)」
 ▼「終点の間近に迫る汽車の窓どの風景も身にしみて見ゆ」
 ▼「戦争を忌避する学生ストライキ頭の瘤は禁死勲章」
 ▼「雨はふるふる半峰は曇る谷の出水で酒足らぬ」
 ▼旅は身軽に荷物は手軽る気軽る足軽るうれしがる」
 西田半峰、昭和36年(1961)7月26日没、享年67。西田没後、百ヶ日に東京で開かれた追悼会で、武者小路実篤が「気持ちのいい人柄、何しろ珍しい男で、もっと長生きして益々奇人ぶりを発揮してほしかった」と述べている。
 少し風変わりで、しかし魅力的な人物であったことが伺える。 (新津 太郎)

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