江戸時代初期建立の山門から臨む「塔世山四天王寺」

本堂に祀られている三面の大黒天像

 昨年12月25日13時、津駅前での取材があったこともあり、久しぶりに七福神巡りを再開。ここよりしばらくは津市中心部にある寺社を巡ることなり、基本的に徒歩での移動ばかり。津駅東口から再び恵比須天霊場・初馬寺の門前まで行き、大黒天霊場・四天王寺に向かって歩き出す。
 両者を直線上で結ぶと1㎞強。次の仕事までに少し時間の余裕もあったので脇道を散策しながら進む。こういう稼業をしていると寄り道しながら得た情報が、ふとした瞬間に役立つことも多い。いつもと違う目線と速さで、じっくり我がまちの『今』を確かめる行為は地方記者の原点。変化を続けるまちの姿を自分の記憶と照合しながら最新の状態へと書き換えていく。
 約20分かけて栄町界隈の散策を終えると、県庁下の坂にある交差点に到着。そこを南に向かって横切ると間もなく眼前に広がるのが曹洞宗の中本山・四天王寺だ。この寺院は推古天皇の勅命により聖徳太子が建立したと伝わる津市随一の古刹。江戸時代には津藩祖・藤堂高虎公を筆頭に歴代藩主からの篤い庇護を受け、伊勢街道沿屈指の大寺院として隆盛を極めた。明治の廃仏毀釈による危機も苦難の末に乗越えたが昭和20年7月、米軍の大空襲で全堂と共に数多の貴重な寺宝が焼失。敗戦から長い時を経て復興がなされ今に至る。
 幸いにも戦火を逃れた山門は江戸初期建立で装飾こそ少ないが古刹にふさわしい威容を誇る。その山門から境内に入るとまっすぐ本堂へ進み、正面より参拝。続けて本堂内に祀られている室町時代作の大黒天像を参拝する。この像は辯才天と毘沙門天が一体となった三面大黒。豊穣の神として知られる大黒天は仏教で富を司ると同時に勇猛な軍神でもあり、この像は織田信長公も祈願したという由緒あるもの。見た目は三面であることと俵が無い事を除けば袋を背負い笑顔を浮かべるお馴染みの姿に近い。 では、護法の軍神がどのような過程を経てあの穏やかな姿になったのかというと…中国から福をもたらす神としての性格を強調された状態で伝わった大黒天が因幡の白兎で有名な国津神・大国主と『だいこく』という読み仮名が共通することから混同される内に習合され、豊穣神として信仰を集めていったことに由来する。他の七福神にも似た様なエピソードがあることからも、宗教・宗派の壁を越えた七福神巡りがいかに日本古来の文化に則っているかを示しているといえる。
 本堂での参拝を終えると、この伊勢の津七福神の発案者である東堂(前住職)の倉島昌行師から寺の歴史などを伺う。私が朱印を集めている専用色紙は、開創法会の前に倉島師より頂いたもので大黒天の朱印もその時、一緒に頂いている。
 その後、本堂から境内の南側に広がる墓地に移動。ここには織田信長の生母・土田御前、高虎公の正妻・久芳院、津藩きっての漢学者・斎藤拙堂、我が国写真術の開祖の一人・堀江鍬次郎など、歴史に名を刻んだ者たちも数多く眠る。その他、境内には津の俳人・菊池二日坊が松尾芭蕉を偲んで建てた『芭蕉翁文塚』などの碑も残っている。
 寺社は信仰の象徴・実践の場であると同時に、移ろいゆくことが常である世の中において不変を旨とする人の記憶とまちの歴史の集積地である。時代に応じてそのあり方は変わっていくのかもしれないが本質的な部分は悠久の時を越えてもなんら変わることはないはず。ある意味では我々、メディアの果たす役割をより大きなスパンで担っているともいえるだろう。
 ふと、そんなことを考えながら四天王寺を後にした私はクリスマスムードに彩られたこのまちの『今』を再び心に刻みながら南へ進む。そして次の霊場に隣接するお城公園に着いた頃にちょうど次の仕事の時間となる。再開は後日だ。(本紙報道部長・麻生純矢)

 子どもの頃嫌いだったものが、大人になると美味しく食べられるのはなぜだろう。
 たとえば、ぬた。野菜や魚介類を酢味噌で和えた料理である。春のわけぎのぬただと、見た目が味噌の茶色だし、わけぎのぬるっとした食感が気持ち悪るいし、酢味噌は酸っぱいし、子どもには辛いメニューだった。ハマグリやイカなど、一緒に和えられた魚介類を掘り出して食べたものだ。 たとえば、サザエの壺焼き。殻から引き出したサザエの先端の緑の部分。苦みと磯の香りが、嫌いだった。たとえば、サンマの腹。二つ切りにしたサンマは尻尾の方が断然好きだった。
 そんな苦手だったものが今では大好物である。サザエの肝もサンマの腸も苦いだけではない。旨みや甘みの中にほのかな苦みを感じて美味しい。 これはどうしてだろう。大人になるにつれて、舌も成長するのだろうか。感じ方が変わったり、幅が広がってきたりするのだろうか。
 経験の積み重ねもあるのかもしれない。他人が美味しいというものにはチャレンジしたくなり、新しい味を経験値として蓄積していく。ビールの苦さも、楽しい場所の美味しいものと記憶されていく。
 腐敗かと思う匂いのフナ鮨やへしこを好む人もいる。ドリアンも美味しいらしい。味覚の奥行きは深い。更に経験を積めば美味しいものが増えそうである。   (舞)

    土井聳牙は津藩の儒学者で名は有格、字は士恭、通称は幾之助、号は松逕、のち聳牙と改め、別号は渫庵・不如学斎という。
 文化14(1818)年12月28日、津の西町(現・中央)に藤堂藩儒医、土井弘の次男として生れた。
 聳牙は幼少の頃から秀才で、その利発ぶりを示すエピソードが幾つかある。3歳の頃、町へ行き「麹」と書いた店の看板を見て「あの字は千字文(習字の手本書)にないが何と読むか」と問うたり、6歳の時には父の意に逆らって土蔵に入れられたが、半日ほど声も立てずコトリとも音がしないので父が見にいくと「太平記」を読みふけり父に気づかなかったという。
 10歳の時、父が江戸勤番中に病死、文政10年、神童といわれた19歳の長兄が早逝。12歳の聳牙が家禄を継ぎ、時の藩主、藤堂高猷の命により川村竹坡(尚迪)の門に入り、さらに文章を斎藤拙堂に、経学を石川竹崖に学んだ。
 17歳で藩主に「論語」の御前講義をおこない蔦模様(藤堂藩の紋)の単衣を賜わっている。しかし、あまりにも猛烈な勉強のせいで目の病気になり左眼を失明する。
 その後、聳牙は右眼も失明になるかとの心配から、書物を読めば必ず暗唱し、文章など二度読めば必ず暗記し、4歳から学んできた四書五経、唐宗八字文などどんな書でも出典を問えば「それはどの書の何巻何丁目にあり」と、即答したという。
 21歳で「資治通鑑」(中国北宗の司馬光が19年かけて完成した北宗前403年
から959年に及ぶ1362年間の通史)校正の責任者となり、途中、血痲を患いながら、弘化4(1847)年、12年かけた大業が完成する。「資治通鑑」校正の仕事を通じ歴史や地理に興味をもった聳牙は考証学(広く古書に証拠を求め独断を避けて、経書を説明する学問)を喜びとして一門を開きその学を創めた。
 その後、32歳から37歳までは藩主の侍読、講官として江戸勤番となり、安積艮斎、西島蘭渓、林鶴梁ら、時のそうそうたる多くの文人墨客と親交をもつことになる。
 ところが、安政元(1854)年4月、攘夷の開国の論議に直言したことが藩主の機嫌を損ね、突然、侍読を解かれ家録も20石減らされる。
 以後、50歳になって再び講官に復帰するまでの12年間、学術研究と塾生の教育
に専念。門人は全国各藩から集まり数百人に及び、明治政府の枢要な地位につく人など多くの門人が維新後各界で活躍した。
 また、その間に多くの著述をなし、「太平寰宇記図」「旧唐書地理志図」(宗・大宗時代の地誌)、40歳で書生に示す詩「示書生詩」、42歳の時には五つ並べの解説書「格五新譜」、津の海をテーマにした「贄崎観涛記」などを書いている。  さらに、49歳から隷書を学び、詩=香良洲を詠んだ「辛州」 花飛ぶ万点風の吹くに任せ 春脚忽忽として賞ずるには己に遅し 凋悵す辛州祠の表路 正に 紅尽き 翠(かわせみ)来るの時=を詠み、絵画では画竹を得意として、「渓山晩歩図」や「竹蘭石図」など、多くの山水や人物画も残している。
 明治元(1868)年、52歳の時、新政府から招聘されるが病気を理由に断わり、翌2年9月、藤堂藩有造館の第五代監学(館長)
に就任、同4年12月の閉館まで努める。 
 同8年、59歳で大患にかかり、自分で戒名をつくっている。「文窮軒潜光聳牙居士」、よい加減な技量で奇怪な行動をし、独りよがりではあるが、世に潜み隠れている人の微かな光りを難しい文章で顕彰してきた者と。
 確かに、聳牙は長身で大頭、鼻は高く大声で、着る物は粗悪、酒、煙草はやらないが、怒ると相手を打ち据えるまで悪口雑言を浴びせ、話し出すと止まらなかった。
 しかし、度量が広く、細かいことを気にせず、物事にこだわらず、過ぎたことを意に介さない、威風堂々とした気性であったようで、故・元三重短大学長の丹羽友三郎氏は、「用意周到、思慮綿密、謹厳実直で豪放磊楽、虚心坦懐が兼備された人」と評している。
 また、肥満の聳牙は暑さに弱く、夏になると塾生たちに水鉄砲を持たせ、庭の真ん中で全裸になって水をかけさせ、奇声を上げて走りまわり、これを見んものと近所の住民が押し掛けたとか、来客に対し下帯だけで兩刀を差して応じたとか、奇行が多かったと史記は伝えている。
 明治12年、中気(脳卒中)で半身不随となり、翌(1880)年には胃を患い旧病が併発、6月1日に永眠する。享年63歳。津の天然寺に葬られた。土井家の檀寺は南尚院で、墓石は南尚院公園墓地内にある。(新津 太郎)

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