先日、友人からメールがありました。「松姫ってどんな人なんや」。私はすぐに思い出した分だけメールで送りました。松姫は戦国乱世の女性の一人。政略結婚の犠牲者で果たせなかった恋の人です。少しして私は机の前に座ると松姫の生きざまをもう少し垣間見たくなりました。
 松姫は永禄4年(1561)に武田信玄の第六女。母は油川氏として生まれました。まさに、武田家の最盛期に誕生しています。甲州の虎と呼ばれた信玄は、何をするか目の離せない信長を…。信長はなにがなんでも味方にしておきたい信玄…。両家の絆を結ぼうと 高価な結納品が取り交わされました。織田信長の嫡子奇妙丸(後の信忠)11歳、松姫7歳の時のことです。
 幼い松姫は届けられる贈り物や手紙にまだ見ぬ「夫」に胸をときめかせて美しい夢を育みながら成長しました。信玄はその婿が来た時にと新しい館も整えていたと云われています。奇妙丸は父信長に命ぜられることなく、まだ会えぬ「妻」に便りを送っていました。  二人の恋が本物になった頃に、その夢ははかなく破れた。二人の父の仲は決裂していたのです。父信玄は元亀3年(1572)に西を攻めようと徳川家康と対戦(三方ヶ原戦)し破ったが、密かに信長は徳川方に援軍を送っていたのです。 信玄は娘の心を不憫に思いはかり、二人の文通は続いていました。その父が翌年4月12日に野田城攻囲中に病死してしまい、二人のかすかな糸はぷっつりと絶えました。
 18歳になった松姫はまだ「夫」に会えずにいました。同母兄の仁科盛信は彼女を庇護しており、他家に嫁ぐ事を勧めるが頑として松姫は応じません。この頃になると武田家は目に見えて衰退していきます。
 天正10年(1582)3月11日に武田家を継いだ異母兄勝頼は田野の戦いで敗れ、盛信は信濃の高遠城で討ち死にし、武田家は滅びました。
 松姫は妹や姪を連れて武蔵国八王子心源院に逃げました。時に松姫22歳の事で、彼女はまだまだ信忠に会う夢は捨てていません。同年6月2日に本能寺の変があり信忠は父信長と共に命を落としたのです。
 のちに徳川家康の家臣となった武田家の旧臣の大久保長安の援助を受けて八王子信松院を建立して、武田家一門及び本能寺の変で亡くなった婚約者忠信の菩提を弔っています。
 畑を耕し、糸を紡いで懸命に働きました。八王子の里人には蚕を飼い糸を紡ぐことを教え、八王子銘仙の基礎を作った人です。妹や姪たちを養育し、行く末を見届けて56歳元和2年(1616)に目を閉じました。信松尼と号します。会うことのなかった恋しい「夫」に操を立てたのでしょうね。松姫は武田家の滅亡を見て、更に新しく訪れた元和偃武(刀を終って平和に暮らす)をみたのです。男たちの戦いの時代が済んで、刀を収めた元和の年号をむかえたのです。
 ちなみに、「夫」となった忠信の家からは三法師(のちの秀信)が跡を継いで小大名となり、信長の七男信高の子孫からはフィギュアスケートで活躍した織田信成選手が現れています。また、「妻」となった松姫の実姉菊姫は上杉景勝の室(大儀院・甲斐御前)になって歴史を彩ってくれています。
 生と死を考える時、戦国乱世の時代に女性が生き延びるためには自分の生命を預けられる相手さえ選べない。生と死の紙一重のところに多くの女性は生きたのです。
 今、私たち女性は輝きを持って生きています。この平和な世の中に生まれ育って良かったとつくづく有り難く思います。
(椋本 千江 全国歴史研究会、三重歴史研究会及びときめき高虎会会員)