奥に見えるのが平成の長野トンネル

フェンスで封鎖されている昭和の長野トンネル

苔むしてもなお、風格溢れる明治の長野トンネル

 長野峠へ続く長い坂道。私は「今日こそ登りきる」と鼻息荒くペダルを回し始めたまでは良かったが、今回も途中で力尽き、いつもの如く自転車を降りる。もはや、おなじみの流れだ。
 半ば開き直った私は坂道に沿って流れる川のせせらぎなど、豊かな自然を愛でながら、長野峠が伊賀街道の難所と言われていた当時の様子をイメージする。そして、一歩ずつゆっくりと大地を踏みしめて往く。
 しばらくすると、そんな私を置いて、軽快に坂道を登っていったM君の姿が少しずつ大きくなってくる。遅れること5分程、ガードレールにもたれかかりながら、退屈そうな様子で彼は私を待っていた。
 この長野峠には標高が高い順に明治・昭和・平成と、3つのトンネルが現存しており、この時2人の眼前にあったのが08年に開通した平成の長野トンネル。前者2つと比べると標高が低いため、凍結のリスクが減り、伊賀と津を結ぶ大動脈で重要な役割を果たしている。全長は1966m。
 その後、新長野トンネルの手前から旧国道163号に入り本来の峠方面を目指していく。今ではこちらの道を通る人も稀で寂しい雰囲気が漂っている。少し進むと主人の勘違いで命を落としたにも関わらず、死後も忠義を貫いた猟犬を祀る「義犬塚」があり、更にその向こうには、長野峠越えの道へ誘う看板もあった。いつかは挑戦してみたいが今日はそのまま進む。
 やがて、トンネル開通記念の石碑などが並ぶ場所へ到達すると、金属製のフェンスで入口を閉ざされた昭和の長野トンネルが間近に姿を現す。昭和14年に開通したこのトンネルは全長約300mで、少し前まで心霊スポットとして有名だった。車で通ると交通事故した死者の霊が見えるとか、白い手が見えるといった話を幾度となく耳にした。
 閉鎖された理由は、湧き水が内部のモルタルを侵食し、通行に耐え得る状態が維持できないため。しかし怪談の影響もあり、このフェンスはこの世とあの世の境界にあるトンネルを塞ぐ役割を果たしているのではなどと、他愛のない想像が頭の中をよぎってしまう。
 残る明治のトンネルは、昭和のトンネルのちょうど真上にある。地元のガイド団体が備え付けてくれた看板を便りに山中を進んでいく。足元が悪いので慎重に歩く必要がある。
 木立の間を縫って進んだ先で対面したトンネルの素晴らしさは想像以上。山中に打ち捨てられて久しいが優美な煉瓦づくりは苔むしてもなお、文明開化の香りと風格を漂わせている。130年ほど前の明治18年開通で、全長200m超ということを考慮するとスケール自体も当時では、相当なものであっただろう。
 隣のM君はというと、真っ先に中に入れないかを確認している。〝蛮勇〟を地で行く彼らしいが残念ながら、入口近くにフェンスがあり、内部は水没。途中で崩落しているらしい。
 ここで、この日の目的は達成。まだ14時前だが切り上げて、日没まで自宅に戻り自転車のメンテナンスを行うことにする。(本紙報道部長・麻生純矢)