読売新聞記事中の模型イラスト

 来年、2015年(平成27年)は、彼の忠犬ハチ公の没後80年。この年の3月8日がハチ公の祥月命日に当たります。
 上野英三郎博士の生地、ここ久居に博士とハチ公の対の銅像を建立しようと久居および周辺の、そして全国の有志の皆さんの間に力強い運動が起こったのは、ハチ公没後80年を遡ること十有余年前のことでした。 その運動を主導したのは「上野英三郎博士とハチ公の銅像を建てる会」です。以来、皆さんの熱い志が実を結び、銅像が近鉄久居駅東口緑の風公園入口に建立され、めでたく除幕の式典が挙行されたのが一昨年、平成24年、没後80年に先立つ3年前の10月20日のことでした。
 「ハチ公と博士との対の銅像」はこれを以て嚆矢とします。銅像制作に当たっていただきましたのは、鈴鹿の彫刻家、稲垣克次氏(日展の評議員、審査委員)です。その素晴らしい出来栄えは、久居駅東口で皆さんご覧の通りです。有志の皆さんと「建てる会」はこの実現を心から喜ぶものです。
 嬉しいことに、対の銅像建立の動きは久居の一基にとどまりませんでした。除幕式に参列された東大の先生方の談話として、ハチ公没後80年の2015年(平成27年)3月8日を目指して、博士が教鞭を執っておられた東大(旧帝国大学)の構内に今一つのハチ公と博士を建立する計画を立てるとのお報せがありました。 その運動の一環として、去る3月8日、東京大学にて「もう一つの東大ハチ公物語」と題するシンポジウムが開催されました。
 それを報じた読売新聞の記事にはハチ公と博士の対の銅像の試作の写真も併せて掲載されています。
 それを見ると、ハチ公がご主人たる博士に飛びつき、静止像なるがゆえに動きこそ見られませんが、ちぎれんばかりに尻尾を振っているものであろうことが容易に想像できるのです。久居の銅像が「静」であるのに対し、東大の試作像は「動」です。
 ハチ公と博士の対の銅像の第二弾の考えとしては、間然するところなく、敬意を表すとともに、来年の除幕式での公開を待つものです。今後も、このように、第三弾、第四弾の対の銅像の建立が新たな創意のもと日本や外国の関係の場所に建立されることを希望してやみません。
 さて、「忠犬ハチ公の物語」は読者の皆さんは既に十分にご承知と思いますが、今一度、ハチ公と博士との心温まる絆をごく簡単に回顧し、あらためて博士の遺徳を偲び、ハチ公の生涯を辿りたいと存じます。
 ハチ公は、生粋の秋田犬です。秋田県の大館町「(昭和26年に市制施行)」に生を享けました。生後50日余りで米俵に包まれ国鉄「(現JR)」の小荷物扱いで東京に運ばれました。
 仔犬であったハチ公にとっては長い長い旅。大正13年(1924年)の寒い1月のことでした。貰われて行った先は、東京帝国大学教授・上野英三郎博士です。博士は、ご存じのように、ここ久居本村甲「(元町)」のご出身です。
 犬好きの博士は、自分のベッドの下でハチを寝かせるほど、可愛がりました。ハチもその愛情に応えて、朝には大学に出講する博士を渋谷駅まで送り、夕方には再び渋谷駅で博士を迎えました。残念ながら、その主従の生活は長くは続きませんでした。ハチが博士の家に来てから僅か17カ月後、博士は大学での講義中に突然倒れられ、不帰の人となってしまわれました。
 しかし、そのことが理解出来なかった、否、理解を拒んだハチは、その後もそれまで通り朝な夕なに渋谷駅に通い、改札口から出て来る大勢の乗客の中に博士の姿を求め続けたのです。 「犬は三日飼えば…」といいますが、ハチにとっては博士と共に暮らした17カ月の経験と記憶は何ものにも代え難い宝であったのです。その忠誠心が徐々に人々の心を捉え新聞にも掲載されるようになり、遂には小学校修身の教科書が「忠犬の物語」として取り上げる事となり、教育の一環を担うに至りました。
 その感動的な物語の中心がハチであり、そのハチの飼主がここ久居出身の上野英三郎博士であることに今一度、思いを馳せたいと存じます。
 そして、同時に地元の久居の地にハチと博士の対の銅像、初めての対の銅像を建立できた喜びを噛みしめております。
 繰返すことをお許しください。久居のものが対の銅像のかぶら矢であり、そのことを秘かに誇りに思うものです。また、久居に続く東京大学構内の「上野博士と愛犬ハチ」の対の銅像(「動」像)の除幕が待たれます。
(上野英三郎博士とハチ公の銅像を建てる会・元代表)