ピンポンとインターホン。不意の訪問は宅配便だった。回覧板は郵便受けに置かれるから、インターホンを鳴らす人は、宅配便とセールスと宗教ぐらいなのだ。
 インターホンが鳴っても、「間に合ってます」「興味ありません」とすませることも多い。
 玄関を開けなければ、悪徳セールスにひっかかる危険も減り、インターホン越しだと断るストレスが軽減される。鍵とインターホンは防犯のかなめだ。
 ところで、私はいつから玄関に鍵をかけるようになったのだろう。田舎で育ったので、玄関の鍵はいつもかけなかった。子ども達やその友達が玄関を出て行ったり入ってきたり。何ということもなく人が立ち寄り、おしゃべりしていくような家だった。
 それが今はこんなに閉鎖的に暮らしている。子ども達が家を離れた後、訪問者が減ったのと、鍵をかけるようになったのと、どちらが先だったろうか。玄関先での立ち話がなくなって、少し寂しいと思わないでもない。
 この変化には、携帯電話の普及も関係しているに違いない。人はまず電話でアポイントメントを取ってから訪れる。よって、前触れするほどでもない訪問が減っていく。 人と人をつなぐツールが、かえって人と人との生身の交流を妨げているようにも思える。
 時代の流れというべきかもしれないが。            (舞)

 熱中症は、高温の環境で脱水症状になったり、体温が急上昇しめまいや立ちくらみなどから始まり、意識障害を起こして痙攣から死に至るケースもあります。
 真夏に発症すると思われがちですが、すでに症状を訴えている患者さんがいます。身近な熱中症である日射病は、意識を失い倒れることもあるので重症のように見えますが、実は数秒程度の失神は軽症なのです。
 中等度では、喉が良く渇く、冷たい物が欲しい、めまい、頭痛、頭重、気力の低下、疲労感、虚脱感、足の痙攣、食欲不振、肩・背中のこり、吐気、嘔吐、失神(日射病など)などの症状が幾つか重なることがあります。
 さらに重症になると意識障害、過呼吸、ショック症状、不自然な言動などが中等度の症状に重なります。中等度までの状態を東洋医学的に考えると、陰と陽とのバランスが著しく壊われたときに起こる霍乱病の状態に似ています。
 昨年に続いて気温の変化が大きいため、体調を壊しやすいと考えられます。熱中症を予防するために、エアコンを賢く使いましょう。
 熱中症は身体に熱がこもった状態なので、熱を取る漢方薬を飲むことで早く回復します。例えば麝香、牛黄、地竜などは身体の内部の余分な熱を素早く取ってくれます。

 昭和二〇年十二月、皇居に六十人ほどの青年たちが手に荷物を持ってやってきた。戦争で荒れた皇居の草刈りや、掃除をさせてもらいたいという思いの宮城県の青年たちだった。
 もし、GHQの目に触れて検挙、あるいは永の別れになるかも知れないと水杯で親兄弟と別れてきたという。
 皇居付近には泊まるところがないので、二十キロ離れたところから歩き、朝から夕まで手弁当で働いた。
東北からはるばる上京し、皇居内の清掃をしている青年たちがいることは、すでに両陛下の耳に届き、天皇さまから「一同に会いたい」とのご希望があった。
 陛下が作業現場までお出ましになったとき、そのお姿を遠くから拝した六十人の青年たちは、仕事を中断し、集まった。
 昭和天皇は、即位以来初めて国民と語り、共に喜ぶという御思いがその時現実となったのである。
 代表がご挨拶を申し上げたのに対し、陛下は「遠いところから来てくれてまことにありがとう」それから、次々に質問をなされた。
 十分ほどのお話があり「なにとぞ国家再建のためにたゆまず精を出してもらいたい」とのお言葉を最後に、陛下は一同と別れ、元の道をお帰りになられた。 二、三十歩お歩きになったとき、突然青年たちが「君が代」の合唱を始めた。当時、占領軍の取り締まりが厳しく、誰もが口にできなかった「君が代」が誰からともなく、皆の心の中からほとばしり出たのだ。
 陛下は歩みを止められ、じっと聞き入っておられた。青年たちはお見送りのつもりだったのだが、陛下は立ち止まって聞き入っておられた。青年たちは、お止めしては申し訳ないと焦れば焦るほどその歌声は途切れ、最後には皆の嗚咽しか聞こえなくなった。
 それから七十年、今も続く皇居勤労奉仕に私は仲間たち二十八名で出かけた。
 初日は、赤坂御苑の清掃で、皇太子殿下がお出ましになり、団長である私に、「日頃はどのような活動をされているのですか?」とお声をかけてくださった。
 「戦後失われてしまった日本の歴史を神話から学び直すために古事記を読んでおります」とお答えすると、「どうか身体に気をつけてご活躍ください」と言ってくださった。
 その涼やかな眼差しに、「殿下もどうぞお健やかにお過ごしください」と申し上げると、「ありがとう」とお応え下さった。
 次の日、皇居の清掃では、天皇・皇居両陛下が御会釈にお出ましくださった。
 私の目の前に両陛下が立ち止まり、お言葉をかけてくださったのだ。
 「三重県ですか、遷宮の後はいかがですか?」と。
何とお答えしたかさえ覚えていない。両陛下の輝くオーラ、その光に包まれる至福の体験であった。
 そのうえ私が代表して、両陛下の至近距離で、天皇陛下、皇后陛下万歳を三唱することになったのである。
「天皇陛下、皇后陛下」と申し上げると私の目を見つめてくださる両陛下。
 そのとき、締め切った部屋の中に風が吹いた。確かに、霊の風が吹いた。そして、はらわたの底から「万歳!」と叫んだ。
 これが、天皇さまか!理屈はすべて吹き飛びただ、かたじけなさに涙こぼれた。
 後ろに控える私の仲間も、各地から集った奉仕団の皆も泣きながら万歳三唱した。
 宮中三殿の澄み切った気配も、ありありとやまとこころに刻まれた。
 日ごとに国民ひとりびとりの幸せを祈ってくださっている天皇・皇后陛下の御存在にただただ感謝が湧いてならない。
 やまとこころに目覚め、国を大事に思う気持ちを取り戻さなければいけない。
かみさまとの御約束で、私たちは世界で唯一、建国以来二六七四年続く、万世一系の大君を仰ぐ君主主義国家、日本に生まれることができたのだから。
     (赤塚建設社長)

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