ソ連兵と米軍兵士が握手する様子を描いた伝単の表面

ソ連兵と米軍兵士が握手する様子を描いた伝単の表面

 津市在住の戦争研究家・雲井保夫さんが、第二次世界大戦終戦間際に津市の上空で米国軍が撒いたビラ、「伝単」を公開した。
 伝単とは、戦時中、敵国国民や、兵士の戦意喪失を目的として配布する宣伝謀略用の印刷物のことで、日本上空の制空権を握ったアメリカ軍は、連日にわたりB─25爆撃機などで、空襲の目標となる都市に大量の「空襲予告」の宣伝ビラを散布している。
 雲井さんが所有するこの伝単は縦10㎝、横15・7㎝センチで、番号は「144─j─1」と印刷されている。今は故人となった津市在住のある人から雲井さんに託されたもの。ビラの表には「感激の握手」と書かれており、朝鮮半島を足で踏むソ連軍兵士と太平洋を渡った米軍兵士が日本列島を挟んで笑顔で握手する様子が描かれている。裏面には米軍の日本兵捕虜が書かされたと思われ

裏面にはソ連の対日連合戦線参加を知らせる内容が書かれている

裏面にはソ連の対日連合戦線参加を知らせる内容が書かれている

る文章が印刷されている。
 ソ連は昭和16年に日本と締結したソ日不可侵条約を破棄し、昭和20年8月8日に突如、日本に宣戦布告。翌日には南樺太・千島列島および満州国・朝鮮半島北部等へ侵攻した。
 この伝単は、日本国民に、ソ連と米軍が手を組んだ以上、日本に勝目はないことを絵にしたもので、裏面の文章は、日本の早期降伏を促したものと思える。 
 昭和20年7月28日の津大空襲の前日の27日に、津空襲予告のビラが撒かれた事はよく知られているが、この「感激の握手」は、津市民には余り知られていない。また、「津市史」でも触れられておらず、津市香良洲歴史資料館にも展示されていない。
 しかし、津市図書館が蔵書する『津の戦災』には故・関口精一氏が書いた「戦中日誌」の8月10日付に、「日ソ開戦を知る。朝、友人浜へ散歩に行き、日本地図をはさんで米ソ兵握手の絵の入ったビラを拾う」という記述があり、このビラが終戦間近の8月10日に撒かれたことが分かる。関口氏は阿漕浦の近くに住んでおり、ここで云う「浜」とは阿漕浦海岸のことではないかと推察できる。
 雲井さんは「戦時中敵機が撒いたビラは個人が所有することは禁じられており、警察署、憲兵隊、警防団、市役所、町村役場に届けなくてはならなかった。届出を怠った場合は三カ月以下の懲役又は拘留、百万以下の罰金などとなっており、そのため撒かれたビラが現存することは非常に珍しい」と話している。
 
                                                                                                                伝単裏面の記述
 
 「蘇聯の對日戰參加は日本國民にとって日本が遂に全世界の陸軍を相手に絶望的抗戰を餘儀なく繼續しなければならぬ羽目に陥ったことを意味する。露西亞を一擧に席巻せんとしたあの精鋭を誇りし獨逸軍及其の猪突的進攻作戰の首魁者たる彼の軍國主義者ヒットラーの末路は諸君の良く知る處であらう。
 即ち東部戰線に在りし全獨逸軍も西亞東歐の豪、蘇聯の反攻に際會して結局は殱滅の憂目に會つたと云う事も諸君の脳裏に深く刻み込まれた事實である筈だ。
 苦戰敢闘數年、遂に獨軍制覇の偉業を確立した蘇聯軍も欧州戰の終焉に伴ひ現在迄遥かに戰前に優る數的、質的陸軍武容を回復充實し遂に對日聯合戰線に一役買って出たのである。
 聯合國の全面的日本進攻作戰を目前に控へ、それに伴ふ日本の必然的なる徹底的壊滅を前に日本國民の採るべき途─ 
 即ち美しき祖國日本を慘澹たる戰禍より未然に救ふ唯一の途が何であるかと云ふことも諸君は良く知って居る筈だ!」