昭和20年、津市はたび重なる空襲を受けたが、その中でも、7月28日深夜~29日未明にかけて行われた米軍の爆撃による津大空襲では市内の大半が焼失し、多くの命が失われた。津市在住の戦争研究家・雲井保夫さん(65)は、当時のB─29爆撃機搭乗員の写真と投下された集束焼夷弾に張り付けられていた「ボム・タッグ」を米国より発見し、この度初公開した。本紙では、これら悲惨な戦争の記憶を風化させず、恨みや憎しみを超えて全ての戦争犠牲者への鎮魂と、平和への祈りを込めて公開することにした。

 

 津大空襲のあった昭和20年7月28日、テニアン島西飛行場の基地から米陸軍航空隊所属の第五八爆撃航空団のボーイングB─29スーパーフォートレス爆撃機78機が次々と津市を目指して飛び立った。この日の空爆は、全機E─48型の集束弾(一発がM─74A1型焼夷弾38発を集束)を搭載。  これは日本本土を焼け野原にした従来の焼夷弾と異なり、米軍が新開発したもので、津市と同日に空爆された青森市に投下した。
 雲井さんはこれまでにも昭和20年6月26日、津市白山町上空の日本軍機によるB─29への体当たりの決定的瞬間を写した写真や、同7月24日、津市街地を空爆したB─29搭乗員の写真を発掘してきた。
 今回、昭和20年7月28日の津大空襲(この日の空襲により、津市は灰燼に帰した)で飛行したB─29爆撃機78機の内、1機の搭乗員11名を写した写真の発掘に新たに成功した。
 写真の他、当日投下の集束焼夷弾に貼付したボム・タッグ(爆弾貼付表。投下された1945年7月29日の日付・目的地が津市であることなどが記されている)も同時に発見した。これにより、この搭乗員たちが津市上空を飛行したことが判る。
 雲井さんによると、「ボム・タッグにより、このB─29が爆撃機群の先導機であったことがはっきりと判ります。当日の空爆中心点は岩田橋の近く。その中心点から半径1200mの市街地に焼夷弾を全B─29が投下することが爆撃の目標となっていました。この先導機は空爆中心点に目印となる焼夷弾と照明弾を投下し、残りのB─29はその焼夷弾と照明弾の出す炎を目印にして爆撃の照準を合わせました。更に、この日の作戦には12機の先導機がありました」と話す。 
 今回入手した先導機のミッチェル機長とその搭乗員の写真の入手経緯は以下のとおり。雲井さんには、アメリカ在住のヘンリー・サカイダという航空戦研究の歴史家の友人がいる。雲井さんと彼はお互いに助け合っている研究仲間であり、30年来の友人。同氏に「津市を空爆したB─29爆撃機の搭乗員の写真を何とか見つけてもらえないか」と助力を求めたところ、アメリカ国立公文書館を初め、様々な機関を回ってくれた。その結果、米陸軍航空隊の戦友会がそれらを持っていることが判り、ミッチェル機長夫人の承諾を得て雲井さんに送ってくれた。

 

 

ミッチェル機長(前列中央)とその搭乗員

ミッチェル機長(前列中央)とその搭乗員

 これらは今まで日本の空襲史や津市で発表されたことは一度もない未発表のもの。雲井さんは「今なお、あの夜の大空襲を忘れる事無く記憶に留めている市民の方々は多いと思います。忘れてはならぬ平和の尊さを今一度、想起して戦争の愚かさを風化させること無く、また後世に語り継ぐための資料となればと祈念し、この写真を公開することにしました。風化は自然に風化するのではなく、風化しない努力を怠るから風化すると思います」と強く訴えかける。

ミッチェル機長(前列中央)とその搭乗員

ミッチェル機長(前列中央)とその搭乗員

 祖国の命令で戦ったこれら米兵も、ある意味で戦争の被害者といえよう。今年も7月28日が近づく中、今回発見された資料をきっかけに、多くの命が失われた津大空襲という出来事を強く心に刻み、平和への思いを新たにしたい。
 ※B─29爆撃機による津大空襲は1945年7月28日の11時47分から、翌日の29日に0時56分の間に実施された。空爆高度は3300~3500m。この夜858名の米陸軍航空隊の米飛行士が津市上空を飛行した。1機のB─29には11名に飛行士が搭乗していた。