突然「三重ふるさと新聞」様からお電話を頂いた。用件は去る7月24日付のの第一面に「津大空襲の記憶 今年も7月28日が近づく中、B─29搭乗員写真やボム・タッグ 津市の雲井保夫さんが初公開」と大きく報じられた記事を読まれた読者の方が、当時投下された焼夷弾の破片を義兄が大切に保管しており、それを私に託したいというものだった。
 それで早速その方に電話連絡をさせていただき、「今すぐお伺いさせていただきたい」と申し出た。その方の自宅前で待ち合わせをして、その方の義兄宅へご案内いただいた。
 「どうぞお上がりになってください」と、見ず知らずの私を、客間へと招きいれてくださいました。
 早速、大切に白いビニールに包まれた「焼夷弾の残骸」を一見するなり、それは頭部の信管の形と位置から「M─69型焼夷弾」とすぐに判別できた。その焼夷弾は岩田橋交番の近く、ちょうどオキナマンショのある場所で、戦前「弓ノ町」、現在の「本町十番地」のお屋敷に住んでおられたK氏の邸宅を直撃し、同家を一瞬にして炎上させたもので、戦後焼け跡を整地された時に見つけてK氏が大切に保管してきたものだった。ここで私は新たな「謎」が出てきた。それは、津市はあの夜、米軍B─29爆撃機は新開発の「M─74A1型焼夷弾」のみ投下して、その威力を確かめるため、その実験地とし津市を選定していたからである。
 そのような事実のなか、3月10日の「東京大空襲」を始めとして、日本本土焦土作戦に最も多用された「M─69」が何故、津市にあるのかという新たな疑問である。
 私が津市に投下されたとする「M―69」を手にするのは実はこれが三度目だ。これまで私は余り疑問に思ってこなかった。「何かの間違いだ」と思っていた。
 しかし、今度のこの焼夷弾は発見場所が完全に特定できている。加えて「岩田橋」近くである。あの夜の津市大空襲はその爆撃中心点が「岩田橋」付近なのだ。そうすると次のような推論が成り立った。B─29爆撃機は76機が投弾、うち12機が先導機である。
 先導機には最も腕のいい爆撃手が搭乗し、後続飛行するB─29のために投下目標焼夷弾を投下して、爆撃照準点を燃え上がる焼夷弾で作る任務があった。そのため新開発の「M─74A1」では実際に火炎を上げるか否か不明だ。それでより確実な「M─69」を投弾したと、考えれば説明がついた。
 一機の先導するB─29爆撃機はE─48型焼夷集束弾、いわゆる親爆弾を39発搭載した。それにより一発のE─48はM69焼夷弾を38発集束する。先導機は12機。そうすると、あの夜、M─69は合計で1万7784発が爆撃照準のために投下したと考えられる。
 津大空襲を体験された方々の中に、「あの焼夷弾は六角形していた」と証言されるのはこのためによると私は考えるのだ。
 今回「三重ふるさと新聞」の愛読者の方がくださった「M─69型焼夷弾」の抜け殻は私の津空襲研究にとても意味深くもっと研鑽する契機となった。快く寄付してくださった方に、改めて厚く御礼申し上げます。
     (戦争研究家)