検索キーワード
2014年9月
8月15日12時前。矢頭峠を越えて、少し先に当たる一志町波瀬の波瀬城跡のふもと辺りよりスタート。
前回、熱中症でダウンしたM君も、体調万全のようだ。しかし、今日も高温多湿なので、行きのコンビニで、しっかりと水分補給用の飲み物も購入。休憩もこまめにとろう。
それでは出発。県道48号を北向きに進んでいく。冷房の効いた車から降りた直後は自転車に乗るのを思わず躊躇ってしまうほどだがこぎはじめると、そんなことはすぐに忘れてしまう。周囲に広がる田んぼの稲はまだ青いが、たわわに穂を実らせ、収穫の時を待っている。秋はもうすぐそこまで来ているの
だ。
すぐに、波瀬の中でも最も大きな集落に入る。ここに来ると、いつも真っ先に思い出すのが〝恩師〟のこと。自転車で走るコースから、お宅はすぐ近くなので、ふらりと寄らせて頂こうとも思ったが、流石にお盆の忙しい折。ご迷惑をおかけする訳にもいかないので、日を改めるとしよう。
恩師といっても、学校で直接教えを受けたわけでははない。だが、それ以上に先生からは大切なことをたくさん教えて頂いた。
先生は公立小学校の教員を定年退職後、私立幼稚園の園長として活躍。更に近年は、海外の日本語学校で教壇にも上がっている。常に新しい環境に身を置きながら、教育者として全力を注がれてきた方だ。
記者として駆け出しだった頃、取材で幼稚園にお伺いさせて頂いたのをきっかけに公私の悩みなど、時間があれば様々な話を聴いて頂くようになった。今思えば、どれも「若かった」の一言で片づけられる些細な問題ばかり。だが、当時は真剣だった。そんな私を笑うこともなく、先生は家族や友人とはまた違う立場で、いつも真剣に耳を傾けつつ、豊かな人生経験に裏打ちされた的確なアドバイスをして頂いた。
社会で挫折を味わい、苦い想いを抱えたまま、再び飛び立つ勇気の出せない若者も多い。私も先生との出会いが無ければそうなっていたかもしれない。そんな僥倖に恵まれた私は本当に幸せであったと思うし、心から感謝したい。
私事ばかりで余り紙幅を割く訳にはいかないで、そろそろ本題へ戻ろう。二人はこの春に惜しまれつつも140年の歴史に幕を下ろした波瀬小学校へ。近隣の小学校と共に、今は一志西小学校に再編されたためこの校舎で授業は行われていないが、市レスリング協会が一部を活用して子供向けのレスリング教室を開いている。一志町は、女子レスリング五輪3連覇の偉業を成し遂げた吉田沙保里選手の地元。この小学校は一つの役割を終えたが、また新たな役割を担う学び舎として再生した。ここから世界に羽ばたく人たちが育っていく様子を想像するだけで少し胸が熱くなる。(本紙報道部長・麻生純矢)
2014年9月4日 AM 4:55
8月28日・29日、津市芸濃町河内の錫杖湖水荘で、県下12の児童養護施設で生活する高校生を対象とした交流会が開催された。
主催=三重県児童養護施設協会(鍵山雅夫会長)ほか。後援=津ロータリークラブ(岩鶴密雄会長)。
現在、県下12の児童養護施設に入所している子供は約400人で、そのうち高校生は40~50人。この交流会は、各施設の高校生が、ほかの施設の高校生や職員との交流を通じて自分を見つめ直し、卒業後の生活を豊かにすることが目的。同じ悩みや経験を持つ高校生が互いに交流することで、社会生活への不安を解消する一助にもなっている。
平成22年度から行われており、4回目の今年は16人が参加した。
一方、同クラブでは次世代を担う高校生達を支援しようと、交流会の運営を前回から助成している。
28日に行われた分散会には同クラブの会員21名が参加。最初に岩鶴会長が「私達は皆さんが立派な社会人になるよう支えていこう、協力していこうという団体です」と挨拶した。
その後、生徒と会員は5班に分かれ「ストレス解消法」などのテーマで和やかな雰囲気のなか話し合った。会員らは「引きこもって悩むより人としゃべること」などと自身の経験を交えてアドバイスし、生徒達はメモをとりながら真剣な表情で聞き入っていた。
2014年9月4日 AM 4:55
今年のNHK大河ドラマは黒田官兵衛(1546~1604)の一生が放映されて、中でもイケメンの俳優さんがやさしい笑みを浮かべた高山右近(1552
~1615)を演じています。ふと、この時代の人々の信仰は…と気になりました。
時は安土桃山期から鎖国に到る頃です。日本人にとって、それまでのどの時代よりも海外との接触の多かった頃です。
天文18年(1549)、はるかな海を越えて神・仏の日本にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝来しました。この信仰は日本中に広がり、キリシタン大名(大友宗麟、黒田官兵衛、高山右近、内藤如安、蒲生氏郷、等々)や百姓町人の庶民の信仰者が増えました。爆発的な広がりに豊臣秀吉、徳川家康はキリシタン禁教を開始し、高山右近や内藤如安は慶長19年(1614)にマニラに追放されています。古田織部は自刃するが、織部焼は残ります。後に藤堂高虎は京都の織部の屋敷と石造物をもらい受けて津に移しています。
キリシタン大名の妻子、家中も信仰を共にしています。高山右近の妻である黒田ジュスタ、細川ガラシャ、松浦久信夫人らの話は有名です。戦いはいやです。平和な世の中を夢みて彼女達は祈りの中に生きたのです。島原の乱以降は鎖国へとなっていきます。
江戸時代初期にはキリシタン達はきびしい弾圧を受けたために、密かにそして深く信仰は続けられ、摂津、伊勢、会津、九州で信仰は守られました。
さて、津藤堂藩でこれらの遺物、遺跡がかい間見る事ができます。寛永年中(1624~1643)、三代藩主高次の時代、彼も他藩と同じく踏み絵で誓わせた人です。が、可愛い娘の父親でもありました。高次の四女、お石姫は信仰深く改宗しません。百石の池田権左衛門に預けていましたが、生まれつき体が弱く、四歳で亡くなりました。正覚寺(別称「赤門寺」津市西丸の内)には御殿の赤門を下げ渡して山門とさせました。西洋式の石棺です。幕府に気付かれないように、戒名は「香林院自性妙円大童女 四歳 寛永二十一年甲申歳八月二十四日 俗名御石」と記してあります。
他に中島・鯰江事件があり、記録によると、寛永14年(1637)秋、上級武士二百石、中島長兵衛夫妻が城内式部倉の空地で逆磔付になり、息子二人が打首となっています。その二年後に上級武士三百石の鯰江九右衛門一家四人、職人、足軽等二十三人は塔世橋下流芝原で処刑されています。子供らは声高らかに祈り唄え信仰を守ったという。他に津城下では医者の道竹、研ぎやの長右衛門ら数人が処刑されています。キリシタンの子孫は天神様、荒神様に擬装を加えて信仰を続けていました。
幕末期に禁教政策がゆるみ、慶応3年(1867)に長崎でキリシタン三三八〇人が発見され、津藩は浦上キリシタン一五五人を預かり、一志大三村に八三名、伊賀に五九名住まわせ村人は大切に接したといわれています。後に長崎に帰しています。ようやく、明治維新による「ご一新」でキリスト教開禁(1873)されました。
今は津市木造町の引接寺、伊賀の西蓮寺、津市西丸の内の津カトリック教会などには切支丹灯籠マリア灯籠が、西古河町の国魂神社に織部型切支丹灯籠が残っています。大きな権力の中にあってもひそかにキリシタンの信仰が守られた形跡がわかり、美しい形でどこか心ひかれます。
現在は平成17年(2005)に切支丹殉教記念碑がお城西公園に建立されて静かに歴史を語っているように思いました。
世界では戦いに明け暮れる国々があったり、伝染病蔓延で大変だあという国があります。
今日の日本の平和に繋がれるまでには幾多の戦いがありました。どの時代でも人は懸命に智恵を持ち、勇気と強い心で生きています。私自身も感謝と喜びと希望の念を大切にして人生を送りたいと思っています。(全国歴史研究会、三重歴史研究会及びときめき高虎会会員)
2014年9月4日 AM 4:55