2014年9月

 夏休みが終わった。子どもたちの宿題の出来栄えはどうだったろう。今頃は自由研究の発表やコンクールが行なわれているに違いない。
 理科少女だった私の夏休みは採集に費やされた。植物標本作りや昆虫採集。岩石や貝殻や海藻も集めた。昭和の自由研究は採集全盛だったのだ。
 今の時代にそんなことをしていたら、命の大切さの講義を受けさせられるだろうか。理科少女だった娘は、死んだカエルを拾ってきて解剖し、解剖図と見比べていた。今の時代にそんなことをしたら、問題児と言われてしまうだろうか。
 毎日のように台所でイワシやアジの腸を引きずり出し、解剖をしている私。調理や採集と、命の大切さとは別次元のものだと思うのだ。
 自然科学への興味は、名前を知るところから始まる。生物を採集し、観察し、名前を確認する。そして、その体の精巧さや命の不思議を知ることが、生命の尊重にもつながる。採集は科学の入口であって、決して残虐行為などではない。
 ところで、子どもの頃文房具屋に売っていた昆虫採集セットは何だったろう。A液とB液、注射器、ピンセット、虫眼鏡。注射器を使うのが珍しくて、毎年のように買ってもらったが、液体に殺虫や防腐の効果があったかどうか疑わしい。今となっては、懐かしい昭和の品である。
        (舞)

 東京の上野と云えば、北の玄関口。明治元年5月15日、官軍と旧幕府の残党、彰義隊との激戦で津・藤堂藩の決死隊が黒門口から突入した事でも知られている。
 が、その上野には上野動物園の近くに寒松院があり、津藩祖藤堂和泉守高虎の墓塔や茶亭「閑々亭」があり、回れば高虎の建設した「忍ばずの池」がある。
 上野と云えば維新の英潔、西郷隆盛の銅像ばかりが有名だが、津藩の故事がすっかり忘れられているのは残念だ。
 「日本名勝地誌」によれば「古へ忍ヶ岡(しのぶがおか)の名なり。徳川家康入国の頃、藤堂和泉守此地に邸第を起し、基地形の伊賀上野に似たりとて改めて上野と称す(ただし、これは俗説で、中世にすでに上野の地名あり)。寛永初年、徳川氏、藤堂をして邸を染井に移さしめ、其跡に東叡山寛永寺を草創して、徳川氏代々の香華院とし旧事は霊殿宝閣すこぶる華美を極めしも明治戊辰の兵火にかかり、堂宇大半烏有に帰せり」とある。
 高虎の墓碑のある上野動物園は寒松院の跡地だが、寒松院は高虎が建設したもので、閑々亭は高虎が三代将軍徳川家光を接待するために建てた茶亭。
 高虎は合戦、築城の名手だが、108歳まで生き天下の安寧に尽くした天海僧正と共に家康の格別の側近で、江戸城や徳川幕府の創設に尽力し、家康の死後、日光東照宮の造営に貢献、家康から伊勢・伊賀三十二万石の大藩をもらったお礼を果たした。
 高虎は関ヶ原合戦の戦功で伊予今治二十万石の城主になり、更に大坂の陣やその後の功績で伊勢・伊賀・田丸(のち大和・山城と交換)など、三十二万三千九百石をもらい、侍従に進み、左近衛権少将に昇進し、寛永7年(1630)10月5日75歳で世を去った。
 だから近江・大阪・伊予・紀州・江戸と転々と流れ歩いたが、実は後半生の大半を江戸に居住、家康の天下を支えたのである。
 がゆえに高虎は家康の無二の側近、天海僧正は明智光秀の〝後身”とはやされた。天海は奥州会津高田で芦名氏の支族に生れた説もあるが、出自不詳。108歳あるいは120歳まで生きたと云われ、天王山合戦で敗れた光秀が京都小栗栖で死なず、東奔西走して家康を支え、江戸に東叡山寛永寺を建てたと云われ、近江に比叡山延暦寺の北院に「願主、光秀」と記した石塔を残すと云われる。
 高虎の遺産のひとつが上野の「忍ばずの池」だ。高虎が江戸の町づくり、江戸城築城の推進中、あまりの大規模、スピードぶりに気の早い江戸っ子は「高虎は伊賀忍者の親玉じゃねえか」と評した。それを家臣から聞いた高虎は笑って「我は忍び(忍者)に非ず」としゃれて忍ばずの池を掘り広げたと伝う。
 後年の戊辰の戦の際、旧幕臣や反政府軍の精鋭三千余人がこもる上野の杜に、その大手門とも云うべき黒門口に官軍の先鋒として壮烈な突撃を敢行した津藩の勇士は高虎の故事を偲び、新日本の建設に献身的な闘いをした。
 六十余年前の東京、学生時代、たまに訪れた上野を懐かしく回想する次第である。いや東京には上野の他、深川、雑司ヶ谷墓地など高虎や藤堂藩士ゆかりの地が多い。
(津市出身、明治大学政経学部卒、「藤堂高虎」などの作品が多い。近著「キリシタン雑記帳」など)

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