無数の松の木が並ぶ「香良洲公園」

無数の松の木が並ぶ「香良洲公園」

「香良洲歴史資料館」

「香良洲歴史資料館」

 香良洲神社を後にした私たちは、目と鼻の先にある津市指定名勝の香良洲公園へ。ここは津市内でも私が特に気に入っている場所の一つ。昔から風光明媚と名高い場所だが、見所はなんといっても、公園内に生えている無数の松の木。縦横無尽に伸びる枝や、地面から力強くせり上がった根。透き通るような青空と鮮緑をたたえた松葉とのコントラスがなんとも美しい。
 「もうこの企画を始めて1年以上になるな」「ゴールまでどれくらい?」「もう少しやと思うけど、足の赴くままやからな」「なんやそれ」などと、公園内を一周しながら、私とM君はとりとめもない会話を交わす。お互いに形こそ違えど色々なものを背負ってしまった三十路男同士で気兼ねなく過ごす時間は存外に貴重なものだ。
 その後、再び自転車にまたがり、すぐ近くの堤防道路に上がり水平線の彼方を仰ぎ見る。冬の海岸は、華やかさこそないが、最小限の彩りでつくりあげられた繊細な美しさが心地良い。
 すぐに堤防道路を下りて、次は少し南にある香良洲歴史資料館へ。第2次大戦中、旧香良洲町には飛行予科練習生(予科練)の教育を行う三重海軍航空隊が置かれていた。その関係者たちが開いた若桜開館を引き継ぐ形で運営しているのがこの資料館。正門にある門柱は戦時中のものを移築している。
 資料館には市内の戦災被害や戦時中の市民生活などに関する展示などがされている。3階には予科練生たちの遺影や手紙といった遺品が展示されているのだが思わず姿勢を正しながら、それらを見学していく。
 手紙に目を通すとまず驚くうのは、どれも美しい字で綴られていること。そして、文面からは彼らが限られた時間の中で、家族への惜しみない愛情と慈しみの心を持ちながら、勉学や訓練に励むなど、日々を精一杯生きてきたことが感じられる。
 そんな前途ある若者たちの命を容赦なく噛み砕き、貪欲に飲み干していった戦争という魔物。苛烈を極めた時代背景を象徴する言葉として引き合いに出されることが多い『お国のために』だが、そこに秘められた思いを推測すると、狂気の沙汰と断ずることのできない自分がいる。自分の命を投げ出してでも両親や幼い弟妹、その延長線上にある祖国を守りたいという純粋な思いが垣間見えるからだ。
 彼らの生きた時代と比べると、幸せに満ち溢れているはずなのに、親が子を、子が親を殺める事件がそう珍しくなくなってしまった昨今。その尊い犠牲からは、戦争の恐怖や平和の大切と共に、日本人が忘れつつある慈愛の精神を学ばなければならないと思う。(本紙報道部長・麻生純矢)

 昭和20年(1945年)6月26日、アメリカ陸軍航空隊、第21爆撃兵団、第314爆撃航空団所属のボーイングB─29スーパーフォトレス爆撃機三15機が太平洋上のグアム島北飛行場を次々に離陸した。岐阜市の川崎航空機岐阜工場及び三重県津市内にある軍需工場群を爆撃せよという命令をうけていた。四機のB─29が津市内の軍需工場を第一攻撃目標として空爆することとなっていた。
 それぞれのB─29はAN―M─64、500ポンド(約250キロ、瞬発弾頭信管、無延期弾底信管)通常爆弾を搭載した。B─29の1機の平均爆弾搭載重量は1万2千ポンドである。これは1機あたり24発の500ポンド爆弾を搭載したことを意味する。
 津市内には、おぼろタオル(軍用タオル)、三菱航空機工場(航空機)、住友プロペラ(プロペラ)、倉敷紡績(軍服、落下傘)、呉羽ゴム(航空機部品)、三重工業(航空兵器)、関西製糸8軍用繊維)などの軍需工場が点在していた。これら工場がこの日の空爆目標となっていた。
 倉敷紡績津工場には学徒動員で、河芸町の豊津村国民学校(現在の豊津小学校)、白塚国民学校(現在の白塚小学校)の尋常高等科の生徒、励精商業学校(現在の津商業高校)の生徒が一般工員と一緒に働いていた。
 豊津村国民学校の高等科の女生徒40名は集団で「豊津上野駅」から電車で工場に通っていた。「江戸橋駅」で下車した。工場までの道の周りは田んぼと桑畑が広がっていました。
 工場に向かう道で「勝利の日まで」「一、丘にはためく あの日の丸を 仰ぎながめる われ等の瞳いつか溢るる 感謝の涙 燃えてくるくる 心の炎 われ等はみんな 力の限り 勝利の日まで 勝利の日まで」…などを歌いながら行進した。
 工場では「米英撃滅」と皆で唱え、拳骨を前に突き出して気合を入れ、それぞれの作業場についた。夏でも白い衣服は戦闘機の機銃掃射の標的になりやすいという理由から茶、紺、黒色等のモンペに黒色の上着を着ていた。上着の左には住所、氏名、年齢、血液型を墨で明記した白色の名札が縫い付けられていた。これは決まりだった。一般市民は老若男女全て名札を縫い付けていた。もちろん防空頭巾も例外なく。
 河芸町の豊津村国民学校初等科の喜代美ちゃんはこの年に同校併設の高等科(現在の中学1年生)に進み、4月から倉敷紡績津工場で働き始めていた。
 津市内には午前7時44分に警戒警報発令、同47分に空襲警報が発令され、津市内には空襲警報のサイレンが鳴り響いていた。
 太平洋戦争が始まって以来、津市には本格的な空襲の日となるのである。津市民は防空壕や待避所に避難した。B─29は9時26分から爆撃を開始した。4機のB─29は目視照準でそれぞれの爆撃目標工場に前後の爆弾扉を全開して、爆弾倉から全弾を一斉に投下しだした。
 現在の津市営球場近くの三重工業、上浜町の三菱航空機、桜橋の住友プロペラ、そして江戸橋の倉敷紡績に対してである。合計4目標地である。津市上空を旋回しながら何度も爆弾を投下することない。投下後は右旋回をして太平洋へと離脱する。倉敷紡績津工場にはおよそ24発の250キロ爆弾が投下された。
 空襲警報が発令されるや否や、喜代美ちゃんらも工場の敷地内に掘られていた防空壕(待避所)に級友と一緒に逃げ込んだ。壕内は避難した人でいっぱいだった。空襲警報が出るたび、いつも避難していた壕である。
 「今日はいつもと様子が違う」と誰もが不安にかられた。それまでほとんどの人が本当の空襲がどんなものなのか、まったく知らなかった。ただ知識として知っていただけだったのである。
 遠くから爆弾の破裂する音がしていた。地響きがして壕もゆれ、柱と板の隙間から土砂が崩れてゆく。B─29の爆音も聞こえてきた。破裂音、地響きがだんだんと近づいてき、不安と恐怖で体が震えていた。
 「お母さん、助けて」と誰かが叫んだ。「この壕にいては危険だ」と感じ、喜代美ちゃんと級友らは壕から飛び出て、一斉に町屋海岸を目指して走った。
     (次号につづく)

kozansan 1 津市丸之内養正町のNHK津放送局1階にあるNHK津ぎゃらりーで、昨日4日~8日10時~17時(8日は16時まで)、志摩市阿児町の西尾狐山さん(69)が古希(70歳)記念の書作展を開いている。
 18歳の頃に書道を始め、仕事のかたわら約50年間、「生みの苦しみはあるが、好きで続けてきた」という西尾さん。定年退職し、現在は自宅で作品を制作している。
 これまでに日展などに出品したほか、志摩地域で書道の指導を行ってきた。
 また、書道の指導者でつくる「南勢書写研究会」を設立し、同会で展覧会を開催するなどして、自身の後進となる〝地域に根ざした指導者〟の育成にも取り組んでいる。
 今展は、10月15日に古希を迎えることを記念して企画したもの。紙ではなく、ケヤキやヒノキなどの木に書いた作品40~50点程が展示されている。これらは、
4、5年前から制作を始めたもの。
 板状にしたり表面を削るなどの加工を施した木に、詩人・坂村真民さんの「三不忘」や、「塵も積もれば山となる」と同じ意味の漢詩「九層之台起於塁土」、「青い山脈」「伊勢音頭」といった歌や、俳句などが書かれている。
 色の濃淡や形が様々で趣きのある木と、丹精込めて書かれた字の組み合わせが見事で、来場者の目を楽しませている。
 「木の温かさと墨の素朴さを出し、手書き文字を魅力ある芸術的表現で日本人の心に響くように書作しました」と西尾さん。

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