2015年6月

(一部に刺激の強い描写がありますが、「ありのままを伝える」という筆者の意向を尊重し掲載しています)
その日、昭和20年7月24日、テニアン島西飛行場から、アメリカ陸軍航空隊第三一三爆撃航空団所属のボーイングB─29スーパーフォートレス爆撃機41機が、津市高茶屋にある津海軍工廠を第一目視爆撃目標地、そして津市市街地を第一レーダーによる爆撃目標地として飛び立った。それぞれのB─29は、AN─M64、500ポンド、約250㎏、通常爆弾を搭載した(作戦任務第288号)。
一方、グアム島北飛行場から、第三一四爆撃航空団所属のB─29、75機が名古屋市にある三菱工業名古屋機器製作所を第一目視爆撃目標地、そして津市市街地を第一レーダーによる爆撃地として爆撃せよという命令をうけた。
搭載爆弾はAN─M56─A2を4000ポンド、約2トン、軽筒爆弾(長さ約3m、直径約86㎝、B─29は一機当たりこの爆弾を4発搭載)とAN─M64を500ポンド、約250㎏、通常爆弾を搭載した(作戦任務第289号)。
アメリカ軍の天気予報では、名古屋地方ではこの日は高度5000mに高層雲、9600mに巻雲があり、30%の曇天ということであった。しかし、いざ日本近くまで来ると、2600mから9000mにかけて厚い雲の層があり「全曇」だった。
これでは目視照準の爆撃ができない。それで予め決めておいたように、それぞれの「目視照準爆撃地」を「レーダー爆撃目標地」に変更した。つまり出撃したB─29全機は「津市の市街地を爆撃せよ」ということになった。高茶屋の海軍工廠の爆撃はこの時点で外された。
津市には午前6時32分から空襲警報が鳴り響いていた。天気は曇り。午前10時27分、第三一三爆撃兵団が爆撃を開始した。同時38分、第三一四爆撃兵団が爆撃を開始。両兵団のB─29は午前10時54分に爆撃を終えた。投下爆弾数は、250㎏爆弾が1120発。2トン爆弾が149発と計算上なる(1機のB─29がそれぞれ4発の2トン爆弾を搭載し、投下した)。
6月26日は、津市内の軍需工場を爆撃目標地としたものであったが、この日、7月24日は天候の都合により全爆弾が市街地に投弾された。
この日、救護班員として、津市の市街地にいち早く入られたある班員の証言があります…。
「私は高茶屋の海軍工廠の医務室に勤務していました。津市が大変なことになっとる、ということを聞き、医務室の医師、看護婦ら全員で教護班を結成して、津市内に入りました。JR「阿漕駅」の東のところに、憲兵隊の詰め所がありました。その詰め所の前の地面近くの樋の出口のところから真っ赤な血がぽたりと落ちてきていました。何故だろうと不思議に思いました。
それで上の方へ視線を移して信じがたいものを見ました。屋根の先端と樋の間に10歳くらいのおかっぱ頭の女の子の頭部が引っかかっているんです。なんてことにと思いました。しばし呆然としました。またその近くで、埋没してしまっている防空壕を皆でスコップを使って掘り起こしました。6~7歳くらいの子供が数人生き埋めになっていました。ぜんぜん傷は負っていませんでした。
一人一人抱きかかえて外に出しました。しかし全員死亡していました。救護班の誰かが『おまえらは、ほんとうにかわいそうや。今度生まれてくる時はもっと良いところへ生まれてきな』と子供たちに言葉をかけました。養正国民学校(当時津市丸の内にあった)の校庭には累々たる死体が横たわっていました。また講堂の中は多くの血まみれの死体、負傷者で口では言い表せない惨状となっていました。5歳くらいの男の子の右足の甲から先が爆弾の破片で吹き飛ばされなくなっていました。『お母さん、痛い、痛い』と叫んでいましたが、母親は座り込んでしまって、ただ泣くだけでした。
この日は救護班の人と市内を救護に奔走しました。行く所、行く所、ひどいものでした。丸之内養正町の我が家の両親のことが心配でしたが、救護活動でそれどころではなく、この日には行けませんでした。
どうにか翌日に戻りましたが不安は的中しました。我が家は完全に焼け落ちていました。見る影もありませんでした。我が家の土間には父が作った防空壕がありました(幅約1m、深さ約1・5m、長さ約2mの縦穴に畳3枚を敷いてあった)。父と母はその中で、黒こげになって焼死していました。私は父母の遺体を防空壕から出し、焼け残った材木を集めて荼毘に付しました。
丸一日かかりました。遺骨を入れるものが無かったので、仕方なくバケツに入れて持ち帰りました。父61歳、母51歳、私が29歳の時のことです。後日、巡査さんが膝の上で『戦時罹災証明書』を書いて私に手渡してくれました。昭和20年7月27日 三重県津市長 堀川美哉となっています」。これは筆者が1996年3月19日、御本人から聞き書きしたものです。
現在の養正小学校は津市丸之内養正町にあります。ここは戦前、「玉置町」と呼ばれ沢山の民家がありました。この日の空襲によりこの町は壊滅しました。多くの市民が犠牲となっております。
戦後、日本国内でこの町が復興できなかった唯一の町となっています。誰が犠牲者となったのかさえ、詳しくは判りません。ある記録によると、死者、1万2000名、負傷者1300名とあります。
この7月24日は真夏のことです。気温は30度前後あったでしょう。散乱する死体や体の一部が腐敗をはじめ、あたり一面異様な臭気に包まれていたにちがいありません。この日の4日後の7月28日の焼夷弾空襲により津市は灰燼に帰しました。
この日、名古屋市が「晴れ」だったら、津市市街地が爆撃されることはありませんでした。その代わり高茶屋の海軍工廠は壊滅していたと思います。7月28日にこの救護班員の方の敷地にも焼夷弾が降り注ぎました。「一坪くらいのところに、十発くらいの焼夷弾が突き刺さっていました」と証言されています。
7月24日と7月28日の2回も空襲を受けたのです。証言してくださった方は既に鬼籍に入っておられます。証言に出てきました、「女の子」は当時9歳だったとある記録により確認できています。また「防空壕」の子供たちは、15、13、11、9、7、4、2歳です。この時、母親を含めて一家8人全員爆死です。父親は多分出征中だったのでしょう。父親が無事帰還されたか、戦死されたのか不明です。一口に「今日の平和は多くの犠牲者の上にある」と申しますが、その犠牲となられた一人一人の死に方は余りにもむごい。それを直視しありのままを語り継いであげることが、真の慰霊だと私は思います。                       合掌。

近年、登山が全国的ブームで、津市でも市内14のガイド団体で構成する「津観光ガイドネット」が先月、市内にある10山の初心者向け登山ガイドブック『津10山(つてんざん)ガイドブック』を限定数配布し、大好評を博した。前回の経ヶ峰に続き、登山初心者の本紙記者が、10山の倶留尊山の登山を体験。まもなく始まるゴールデンウィークのレジャーとしても最適な“津の山登り”の楽しみ方を探る。(本紙報道部長・麻生純矢)

 

 

倶留尊山山頂からの眺望

倶留尊山山頂からの眺望

4月22日、前回の経ヶ峰に続き、津市美杉町太郎生と奈良県宇陀郡曽爾村との境にそびえる津10山の最高峰・倶留尊山=標高1037m=に挑戦した。
津市の中心市街地から、自動車で約90分ほどで美杉町太郎生へ到着。集落から、池の平高原方面へと進み車を停める。そこからは亀山峠をめざす。人工林の中を走る道は、かなり整えられており、歩き易くなってはいるが、登山初心者にとって決して楽ではない。しかし、苔むした敷石や優しい木洩れ日がなどが疲れを和らげてくれる。
休憩を挟みながら、しばらく進むと、ススキの名所である曽爾高原を見下ろす亀山峠に到着。秋にはここが絶景スポットになる。そこから岩がむき出しとなった斜面を登っていくと、やがて管理小屋が見える。倶留尊山の山頂一帯は私有地のため、ここで入山料500円を支払う。
管理小屋の少し向こうに倶留尊山のすぐ脇にそびえる二本ボソ(980m)の山頂広場。少し斜面を下ると、緩やかな鞍部であるこの辺りにはシャクナゲやヤマツツジが群生しており、花期の5月には大変美しい景色が広がる。そこからもう一度、急な斜面を登るとそこが倶留尊山の山頂だ。ここでしばし眺望を楽しみながら、休憩を取る。
休憩後、木に巻きつけたテープを頼りに西浦峠方面へと進むが途中で柱状節理(五、六角形の柱上の岩石の割れ目)が岬のように 突き出した場所の上にある三ツ岩に立ち寄る。ここからの眺望は素晴らしいが、断崖絶壁なので思わず、足がすくんでしまう。
そこから人工林の中を進むと、西浦峠に到着。九十九折になった坂道・七曲りを下るとやがて舗装された道へ。自動車が停めてある場所まで戻り行程は終了。帰路に美杉リゾート=美杉町八知=の火の谷温泉に立ち寄り、疲れを癒しながら達成感をかみしめた。
登山がにわかに盛り上がる中、津10山の内2つの山を登って実感したのは遠くに行かなくても素晴らしい山が身近にあるということだ。普段、なにげなく見上げている山々も実際に登ると愛着がわくし、周辺の観光スポットを回ることで津市がますます好きになれるのも素晴らしい。
また思いのほか、楽しかったのは登山道具選びだ。今回の企画に当たり、優先度の高い入門用の登山靴と、雨具を購入したところ、5万円程の出費となったが専門店の店員に質問しながらの道具選びは非常に勉強になった。ファッション性や価格等、重視するところは人それぞれだが、もしもの際に生死を分かつ要因となるだけに、低山でもそれなりの準備を心掛けたい。
今後、津10山が更に盛り上がり、津市の新たな観光資源になっていくことも期待されているが、最も大切なのは地元での盛り上がりだ。登山に興味のある人は、 このゴールデンウィークに紹介した経ヶ峰や倶留尊山辺りから初めてみてはいかがだろうか。

挨拶する橋爪俊裕会長

挨拶する橋爪俊裕会長

19日、津都ホテルで津ライオンズクラブ=橋爪俊裕会長、以下LC=が「結成55周年記念例会」を盛大に行った。
例会には、津LCの会員に加え、周辺のLCや、姉妹LCである台北LCと上富良野LCの会員ら、来賓の鈴木英敬三重県知事や前葉泰幸津市長ら計162名が出席した。
津LCは結成以来、様々な社会貢献活動に取り組んでいる。近年では、中勢グリーンパーク=津市あのつ台=への桜の木の植樹、時計台の設置、遊具の寄贈や盲導犬の育成にも力を入れている。
冒頭、橋爪会長は「当クラブは55年間、様々な会長の下で社会福祉をモットーに事業をしながら半世紀を過ごし、進化してきた。世の中がグローバル化し、社会構造や自然環境、人の考え方や価値観が大きく変化する中、組織も人間も変化する必要がある。ライオンズクラブも時代に合った奉仕をしていく必要がある」と力強く語りかけていた。

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