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2015年6月
この4月の改定に伴い、津市の65歳以上の高齢者が支払う介護保険料の基準額(月額)が6167円に値上がりした。全国平均5514円と比べると高額であり、団塊世代の高齢化に伴い、保険料の更なる上昇が確実視されている。津市も制度改正で新事業を立ち上げ、地域のサービスの充実を図りながら保険料上昇の抑制もねらう。高齢者の生活を直撃する大きな問題だが、保険料上昇の抑制と共にサービスの質の維持も課題となる。
65歳以上(第1号)の介護保険料は3年ごとに運用する自治体による保険料の見直しが行われており、第6期(平成27~29年)に当たる今期の基準額は全国平均で5514円と、5期の月額平均4972円から10・9%上昇している。
津市では前期5690円から今期6167円と伸び率自体は8・4%と抑えたものの、元々全国平均と比べて高どまりだったため、年金収入に頼る高齢者の生活を更に圧迫する。
全国に目を広げると、保険料が月額2800円と最安の鹿児島県の三島村から最高額の奈良県の天川村8686円と大きな保険料格差が発生しているが、一概に安ければ良いと言えないのがこの問題の難しさ。極端に保険料が安い自治体では、介護施設の不足からサービスが受けられず、結果として支出が抑えられ、保険料が安くなっているというケースがあるからだ。
津市はというと、介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)を昨年9月1日現在で28施設1421床整備。入所待機者の解消のために、平成30年までに更に120床を増床する計画もある。その他の施設も比較的整備が進んでおり、それらが保険料に反映されているといえる。
保険料の抑制に最も有効な対策は、介護を受けない健康な高齢者を増やしたり重度化を防ぐことだ。そこで、津市では介護予防事業を行ってきたが、想定以上に参加者は少なく思うような成果につながらなかったという実情がある。
今年度の介護保険制度の改正に伴い、全国の自治体は要支援者に対する予防給付を廃止し、各自治体による独自施策への移行を求められる。津市もその流れの中で新たな対策を打ち出している。これまで要支援者に対する予防給付は法で定められた全国一律の人員基準のもとに運営されている訪問介護や通所介護などのサービスを提供する形だったのが、自治体の裁量で地域の実情にあった多様な事業を展開できる。
津市では、現行の訪問介護と通所介護に相当するサービス、現行基準を緩和したサービス、住民主体の支援等の多様なサービスの実施を掲げ、介護事業者による実務者会議と、誰もが参加できる意見交換会を経て、平成29年4月から「介護予防・日常生活支援総合事業」のスタートをめざす。
改正後は、市町村の判断でボランティアやNPOなども事業に参加できるようになるため、地域に根付いた住民サロンやコミュニティの活用により効果的かつ安価な介護予防サービスの展開も期待しているが、市内で地域間格差が生まれる可能性もあり、慎重かつ柔軟な対策が必要となる。
今後、団塊の世代の高齢化に伴い、加速度的に保険料が上昇していく試算が出ている。新たなサービスの財源の構成はこれまでと同じであるため、サービスの充実と、保険料上昇を抑えることの両立は決して容易とはいえない課題だ。津市にはこれまで以上に、地域の声に即した積極的な取り組みが求められる。
2015年6月19日 PM 1:07
念願であった日本三大山城の一つ、岐阜恵那の岩村城を訪ねる事ができました。(他には奈良大和の高取城・岡山備中の松山城があります。)日本最高所717mの場所に本丸を構えた〝岐阜のマチュピチュ”で別名〝霧ヶ城”と呼ばれています。
岩村城は源頼朝が最も信頼した武将加藤景廉に文治元年(1185)に東美濃の遠山荘を与えました。その長男景朝がこの地に住み遠山姓を名乗り、子孫は岩村城を本拠としました。城主は幾多も替わりましたが明治維新まで存続する。私は本丸跡に立ち、四方の山々や城下町を一望した時、遠山景任の妻の事が脳裡をよこぎりました。戦国時代の世に悲哀に散った女性の事です。
岩村城は甲斐の武田信玄と尾張の織田信長の戦いのはざまにあり、双方にとっては重要な拠点です。信長にすればこの城を押さえておけば信濃・甲斐を攻めるのによいし、又、信玄にすればここから一挙に美濃に入れる城であります。信玄を恐れていた信長は約385年間遠山氏が守って来た岩村の地に、父信秀に妹である叔母を遠山景任の正室として送り込んだのです。女の意思もなく愛もない政治道具の政略結婚。元亀元年(1570)に武田軍秋山信友(晴近)に攻められ、遠山一族は総出で戦うが敗れました。それから1年余り後に景任は病死。未亡人(修理夫人、おつやの方)は遠山家を出ません。信長とこの城の関係を繫ごうとし、信長の五男で7歳の御坊丸を養子に迎えて、「城主は私がなる」と実権を握りました。天正元年(1573)春、再度秋山信友を将とする武田軍が攻めてきました。女城主は甥の信長に救援を求めていたのですが、信長は都への上洛に動き出した信玄に立ち向かう為に助けに行く余裕はなかったのでしょう。孤立した岩村の女城主は不安の中にあり、見捨てられたと思い、悲しみの心でいました。四ヶ月の籠城の後、秋山信友の和睦案(そなたを妻に迎え、御坊丸を我が子とし、城を保とうぞ)を受け入れ開城しました。そして信友の妻となり、甘い甘い日々を楽しみ、恋する女として生きていました。御坊丸は武田氏の人質として甲斐に送られていたのです。しかし、この敵将秋山との夫婦生活は2年と続かなかったのです。武田信玄は上洛の途中で病気(胃ガン)で死去。後を継いだ信玄の四男勝頼は天正3年(1575)長篠の戦で敗戦。武田と織田の勢力が逆転です。天は信長に味方したのです。
信長の叔母への怒り恨みは深かった。嫡子信忠に岩村城を攻めさせました。籠城5ヶ月、11月21日に秋山は兵や家族の命の保障を条件に降伏したのですが、信長方は条件を守らず木実峠で逃げ惑う兵士・女・赤子のすべてを殺しました。そして信忠は秋山夫妻ら5人を残酷な逆磔にして、後に大将塚に葬られています。「おのれ信長め!織田を祟ってやる。必ず織田を滅ぼしてやる」と絶叫して命果てたと云われています。後に人質となっていた御坊丸は信長の元に帰されて織田勝長と名乗りますが、叔母の呪いだろうか7年後の本能寺の変で信長・信忠が死に、勝長も二条御所で討ち死にしています。女の執念はすごい!
この城は、地下水脈がサイフォン現象を起こしており水が豊富。殿様の食事に使用されました。地形的に霧が発生しやすいので霧ヶ井伝説は有名です。また本丸裏門の石垣は野面積み、打込接ぎ、切込み接ぎの三種の積み方が一度に見られる珍しい場所です。
平和なやさしい心で生きることなく、家のため、国のため生きたのが戦国期の女性なのです。悲哀の女城主の生き方や叫びを歴史の中に尋ねて、今の世に生かされる私達女性は常に国や家の太陽であり、社会との関わり、知識、工夫を持ち、輝き、楽しい日々を過ごしたいと感じました。
(全国歴史研究会・三重歴史研究会・ときめき高虎会会員)
2015年6月19日 PM 1:05
津市美里町北長野の美里ふるさと資料館で6月29日まで、救護施設「長谷山荘」=津市片田長谷町=の利用者約20名がクレヨンや色鉛筆で描いた絵画が展示されている。
開館は9時~17時(入館は16時まで)。毎週月曜休館。
同施設では、10年程前から月1回、ボランティアの講師・今瀬永利子さんらのもと、希望者が絵画の制作を楽しんでいる。
この展示は毎年1回開いているもので、今回の出品作品は、花や静物、人物を描いたものなど約80点。色使いなどにおいて既成概念にとらわれず、伸び伸びと描かれた力作が並んでいる。
今瀬さんは「例えば、今まで人の顔だけしか描かなかった人が、花を描くようになったりすると、状態が良くなっているのを感じます。今回展示しているのは、花や瓶などを見ながら描いた瑞々しい作品です」と話している。
2015年6月19日 PM 12:15