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その日、太平洋の硫黄島基地のアメリカ陸軍航空隊、第7戦闘機コマンド所属の第21戦闘機大隊の第46戦闘機中隊、P─51D─NAムスタング戦闘機16機、第72戦闘機中隊、同16機、第531戦闘機中隊、同15機、合計47機が愛知県の清洲飛行場に機銃掃射を浴びせよという命令を受け発進した。
日本時間午前11時13分。一方第506戦闘機大隊の第457戦闘機中隊所属の同戦闘機24機、456戦闘機中隊から同戦闘機20機、462戦闘機中隊から同戦闘機20機、合計64機が三重県の明野飛行場と北伊勢飛行場に対し機銃掃射を浴びせよという命令を受け発進した。
日本時間午前11時25分。総計111機が一路日本本土に向かった。途中、先導するB─29と合流した。しかし様々な理由で日本本土まで飛来したのは、88機である。
第21戦闘機大隊は2時15分から2時25分の間に、第506戦闘機大隊は2時35分に潮ノ岬付近に到達した。先導任務を終えたB─29は洋上で旋回しながらP─51が任務を終えて集合空域に集まるのを待った。
三重県伊勢市の陸軍明野基地に「敵小型機の大編隊、伊勢湾に向かって北上中」との情報が入った。明野基地には陸軍飛行第二集団に属する飛行第111戦隊、編成戦闘機「キ─100、五式戦闘機」があった。 そこで、第一大隊長・江藤豊喜少佐(陸航士48期)と第一中隊長・多田大尉(同54期)が五式戦闘機12機を。また第二中隊長・家田大尉(同54期)が五式戦闘機12機。第二大隊長・檜與平大尉と第三中隊長(同54期)が五式戦闘機12機を発進させた。
さらに、第四中隊長・西村大尉(同58期)の五式戦闘機12機が邀撃のために緊急発進した。
また大阪府泉佐野市に分駐する飛行第111戦隊の「五式戦」30機も同じように緊急発進。伊勢湾上空で名古屋方面から南下してくるP─51群とたちまち大乱戦となった。この結果、4機の「五式戦闘機」のみが佐野基地に帰還できたのである。
敵米軍戦闘機が「P─51ムスタング」と判った時、檜與平大尉(大正8年徳島県生まれ)は敵愾心が湧いた。というのも、この日から遡る昭和18年11月27日、ビルマ(現在のミャンマー)の陸軍飛行64戦隊(加藤隼戦闘部隊、加藤建夫・戦隊長)付の操縦士として陸軍戦闘機「隼」を駆ってインド洋上空で「ムスタング」と交戦した際、右足を機銃弾が貫通した。
出血がひどく、意識が朦朧とする中、ラングーン(現在のヤンゴン)基地に生還。右足膝下から切断するという手術をうけた。
その後の「恩賜」の、ジュラルミン製の義足をつけて、不撓不屈の敢闘精神を持って、再び戦闘機を乗りこなすまでになった。
昭和19年10月、明野陸軍飛行学校の教官となり、大空に戻っていた。右足を奪った「P─51」が目の前にいる。「何が何でも撃墜せねばおさまらぬ」。
P─51戦闘機群は新宮付近から三重県の海岸線に沿って飛行後、それぞれの機銃掃射目標地を目指した。
ベンボウ大尉は第506戦闘機大隊、第457中隊の中隊長である。中隊は伊勢湾上空を北上。他の多くのP─51は伊勢神宮上空から松阪付近に差し掛かっていた。
ほどなく日本軍戦闘機とたちまち空中戦に。伊勢湾、松阪、津、四日市等上空が空の戦場となった。4000メートル上空では大乱戦で四散してゆく戦闘機の破片がキラキラと光る。あるものは火煙を発し墜落していった。白いパラシュートもあちこちで開いた。伊勢湾には敵潜水艦が救助態勢に入っていた。
檜大尉は最後尾の編隊に接近してゆき、僚機に攻撃開始の合図を出した。編隊長機を狙ったが、僚機との連携がうまくゆかない。
しばらくすると編隊の先頭を行くP─51が陸地のほうに旋回した。その時、そのP─51を狙い追尾。眼前のP─51に迫ってゆく。「五式戦闘機」の機体が滑る。義足の右足の突っ張りができない。どうにか機体を安定させ、射撃照準器にP─51の右主翼の付け根を捉えて操縦桿の機銃掃射ボタンを押した。
曳光弾とともに機銃弾がP─51に吸い込まれていった。命中した後、右主翼の付け根から黒煙を吐き、右主翼が砕けて飛び散った。そのわずか上を檜機は辛うじて通過。米兵の顔が見えた。P─51は青い山に吸い込まれるように墜落。
この撃墜劇は津市上空で演じられた。このP─51を操縦していたのは、ジョン・ウエスリィー・ロング・ベンボウ大尉である。大尉のP─51(機体番号44─63983)は津市美里町桂畑地内の長野城址、緯度34度44分47秒、経度136度20分29秒の東側100メートル近く下の森に墜落したのだ。
戦いはおよそ30分間に亘り、30余りの交戦が展開された。大尉機が撃墜される様子を見ていた美里の警防団は津憲兵隊に連絡した。 憲兵隊員と警防団員らが現場に駆けつけた時、機体は炎上していなかったが、パイロットは即死していたようだった。憲兵隊は遺体の検査をした。救命胴衣、パラシュート、地図を遺体からはずし、遺体は警防団員らの手で現場近くに埋葬された。機体の残骸はその場に放置されたが、機関銃は取り外され、憲兵隊員らが持ち帰った。
昭和21年5月23日、アメリカ軍第108給養隊墓碑登録小隊の戦死者遺体回収隊が美里村(当時)を訪れ、遺体を掘り返したものの本来なら首に掛けてある認識票が見つからず、人物の確定ができなかった。
そこでP─51の機体番号から割り出したのである。 ベンボウ大尉は1918年にノース・カロライナに生を受けた。1941年10月、陸軍に入隊。飛行教育を受けた後、飛行教官になり空中戦と射撃を教えた。1944年6月、マーガレット・コーと結婚。同年10月、戦闘機隊に志願する。45年2月、サンフランシスコを出港、テニアンでの任務後、硫黄島に着任した。この日の空中戦で戦死したのは、ベンボウ大尉のみである。この悲報は夫人に伝えられた。夫人はその後、再婚された。
今、ベンボウ大尉は故国のアーリントン国立墓地に眠っている。
明野基地の鈴木甫道大尉は新婚生活を1週間すごしただけで、この日、戦死された。戦後、明野基地での慰霊祭の後、大尉のご母堂(母親)が檜興平氏の案内で伊勢の浜辺を散策された。「こんなにも美しい海で眠っているんですね」と檜氏に言われた。砂浜の散策は義足の檜氏にとって、どのようなものであったか。大尉夫人はその後、再婚された。
檜與平氏は大尉時代の昭和20年1月15日に医師の令嬢「宣子」と華燭の典を挙げた。檜氏25歳の時である。この日の前日の14日、米軍B─29スーパーフォートレス爆撃が名古屋空爆の途中に伊勢神宮と明野基地に爆弾を投下。明野基地から二式戦闘機が3機迎撃のため発進したが、撃墜できなかった。同基地では死傷者もでたことから切歯扼腕(せっしやくわん)の思いを檜大尉はした。
檜氏は平成3年1月に鬼籍に入られたが、生前に遺言状を遺している。
「大東亜戦争で生死を共にと誓った戦友は殆んど戦死し我のみ残る身となったが加藤建夫戦隊長はじめ八田米作大尉等多くの人々とは、今尚南海の底深く眠り続けられて居り、痛惜の極みであるが、終戦の年の六月五日B─29との空中戦で部下の安部司郎少尉と日比重親少尉の両名を熊野灘で失い又同年七月十六日P─51の戦斗で部下の鈴木甫道大尉を伊勢湾で戦死させ、未だ海底に在ると思えば胸の張り裂ける思いである、よって我が死亡の節は身内のみでつつましく埋葬下さる様、堅くお願いする。平成元年六月四日檜與平 花押 家族一同様」。
この遺書の写しは、夫人より私に送り届けられたものです。
檜與平氏のジュラルミン製の義足は今、航空自衛隊入間基地内の教育講堂(修武台記念館)の2階で一般展示されている。
先の戦争で三重県下に空中戦のすえ撃墜されたアメリカ軍の戦闘機はこの1機だけである。
(津市在住。英語講師)
2015年7月2日 AM 4:55
この4月に就任したばかりの三重大学の駒田美弘学長(63)のインタビュー。〝地方創生〟を国が推進する中、その貴重な戦力となる若き人材の育成を筆頭に、産官学の連携による地域経済の発展や地域活性化の要として地方大学の果たすべき役割は非常に大きくなっている。そこで、学長として、どのような大学をつくりあげ、運営していくのかを聞いた。(聞き手は本紙報道部長・麻生純矢)
──教育、文化、産業、医療など、各分野で地方大学の役割が非常に大きくなっていると実感します。新学長としての意気込みは。
駒田 学長就任に当って6つのビジョンを打ち出しているが、三重大学が三重県にあるということが非常に重要。全てに共通するキーワードは『地域』といえる。地域貢献、地域医療、地域教育など、地域という言葉を掲げた活動が重要で地域に役立つようなたくましい人材の育成を意識している。今まで以上に地域という言葉を念頭に置いた大学になることが三重県を中心とした地域に望まれていると感じている。
近年、少子高齢化による人口減少を筆頭に、教育や福祉などの分野で地域が困っている。それを支援するために、大学として人材を育て、知恵袋になるなど果たすべき役割はあるので、オール三重大学で当たりたい。そのパートナーは、県や市町といった行政だけでなく、地域の企業ともスクラムを組んでいきたい。
──そういう連携を促進していければ、県としても発展できますね。
駒田 そのためには、新たな工夫が必要となる。三重大学は津市にあるが、県全体を見渡せば南北に180㎞ある。これは東京と静岡県の掛川間と同じ位の距離。津市からだけではカバーできないので、各所にサテライト拠点を置き、三重大学がハブ機能を果たす。
私は県域を4つ足のヒトデと捉えており、上の足は四日市、左足は伊賀、右足は志摩、下の足は紀南地域で、それぞれにサテライトを設置する。そして、四日市なら産業や環境、志摩なら観光や防災といった具合に地域の実情に合わせた機能を持たせる。地域に根差すには、大学は必要な情報や人材を届けつつ、地域問題をくみ取る必要がある。
──問題の解決で地域も良くなり、大学としても更なる力をつけられますね。
駒田 この動きに賛同して頂けるパートナーは多い方が良いので、行政だけでなく県内の高等教育機関が役割を分担して取り組む仕組みづくりも必要。産業や医療などの各学術分野でコンソーシアム(連合)をつくっていくのが良い。
学長の意気込みとしては「学長モード100%」。基本的には教職員の考えをボトムアップさせ、リーダーシップをもって一つのものを作りあげていく。大学全体のプロジェクトを作り上げるには、教職員たちが独創性を発揮する必要がある。彼らが持っている知的能力や技術は非常に素晴らしいと実感しており、それを結集して戦略的にやっていくことは可能だと思う。
もう一つ大事にしているのは創発的な環境。教職員の様々な取り組みがお互いに関係し合うことで単純な総和でなく、想定を遥かに上回る素晴らしい成果が生まれる大学にしたい。それには必要な条件がある。 1つ目は全教職員が大学の一員としての自覚を持ち大学側は常に自分の意見にも耳を傾けてくれると思える民主的な環境。2つ目はみんなが平等で公平であること。3つ目は限られた時間、人員、資金などの資源を有効に使うこと。
これが揃うと色んなプロジェクトの実現など大学は素晴らしい機能を持つようになる。なにも難しい話ではなく、夫婦関係にも例えられる。全く違う環境で育った男女が共に家庭をつくっていくことで、笑顔が生まれ、近所のお年寄りに親切にしてあげられたり、単なる総和以上の効果が生まれる。それには2人が平等で愛し合っており、限られたお金をどう使うのかを考える必要があるのと同じ。それを大学という組織でやりながら、6つのビジョンを実現していきたい。
──ありがとうございました。これからのご活躍が本当に楽しみです。
2015年7月2日 AM 4:55
6月20日、百五銀行頭取で、陶芸を筆頭に様々な芸術分野でその才能を遺憾なく発揮した稀代の風流人・川喜田半泥子(1878~1963)が暮らした千歳山=津市垂水=をテーマにしたシンポジウムがアスト津で開かれた。主催=津文化協会、三重郷土会。
津市内を一望できる景勝地でもある千歳山に半泥子は日光東照宮の修復などで知られる建築家・大江新太郎が設計した木造二階建の洋館と木造平屋建の和館で構成される邸宅を1915年に建設。窯を構え、作陶に没頭する傍ら、邸宅で多くの著名人たちをもてなしてきたが、1943年に鈴鹿市にあった海軍工廠に寄付された上で移築。1985年に解体された後に奈良県の団体が部材を引き取ったが倉庫に保存したまま再建されずに現在に至っている。
各分野の専門家やゆかりの深い人たちによる報告では、元県立美術館普及課長の森本孝さんが、半泥子の陶芸作品の魅力を、半泥子の孫で三重トヨペット社長の川喜田久さんが家族への愛情も深かった祖父と過ごした日々や、ユーモアにあふれどんなことにでも興味を持ったその人物像を、三重大客員教授の吉村利男さんが千歳山の歴史についてを、三重大教授の菅原洋一さんが邸宅の部材の保存状況やその歴史的価値を、三重テレビの前社長志田行弘さんが津市千歳山を考える会の一員として調査した時の所感や自らの思いといった具合にそれぞれが順番に語った。
中でも、菅原さんは「一部は土になってしまっているが大半の部材は良好な状態」と現状を説明をし、設計した大江新太郎の他の建築物は重要文化財になっており、邸宅もそれに匹敵する価値があることを解説。復元に向け、津市が団体から部材を引き取って保管するべきと主張した。
討論会でも、菅原さんをコーディネーターに5人が活発に意見を交換。豊かな自然環境に恵まれ、文化的にも非常に重要な場所である千歳山を市民の憩いの場として活用するためにもその核となる邸宅の復元の重要性を訴えていた。
2015年7月2日 AM 4:55