1945年7月28日、テニアン島西飛行場から米軍第21爆撃兵団、第58爆撃航空団、第40および第444爆撃航空群所属のB─29爆撃機78機が津市市街地に新型焼夷弾 M─74A1を投弾せよとの命令をうけ、順次離陸した。1番機は日本時間の午後4時42分で、先導機は12機である。実際に爆撃任務に就いたのは76機である。
この日からさかのぼる数週間前に、米軍第20航空軍の化学課は新型焼夷弾の威力を試すために標的地の選定作業を開始していた。
その結果、津市と青森市を選び出し、次の3点を決めた。①焼夷弾を投下するために、1・6平方マイルの中心部にただ一つの爆撃中心点を定める。②爆撃はM─74A1型焼夷弾を集束するE─48集束弾(通称親爆弾)のみ使用する。③空襲予告のビラを撒く。
M─74A1型焼夷弾は重さが4・5キログラム、長さ49・6センチ。信管はM─142型。この信管はどのような角度からの衝撃にも瞬間的に作動する全方向信管である。
信管が作動すると、信管内のⅡ型信管火薬が働き、発射火薬が爆発してマグネシューム火薬を点火する。その結果、ガス圧が「噴出ドーム」を焼夷弾の「尾部」に向かって放出される。
その際、「黄燐」が充填されたプラスティク製の「黄燐容器」を破壊しながら「焼夷剤」一瞬に炎上させ高速で弾尾から噴出する。黄燐の燃える粒子の四散と爆発で生じた白煙と黒煙が消火活動を妨げる。「焼夷剤」はPTI混合物と呼ばれるもので、マグネシュームとガソリンやイソブチルメタクリル酸塩と濃縮した他の石油製品と混合したものである。
これは「ピロゲル」または「グープ」と呼ばれ、ちょうど泥で作ったおまんじゅうみたいなものだ。灰色で柔らかくずっしりと重い。しかもネバネバする。それ自体で酸素を供給するし、水を掛けられるとその水から酸素を得て、余計に燃え上がる。
すばやく上方へ燃え上がるだけではなく、床も急速に燃やす。灰は元の「焼夷剤」の数倍に膨れ、燃え落ちた床の穴から階下に落ちたり、それがかき乱されると、再び燃え上がる。
当時のアメリカ軍の化学班の将校は「消火方法が全く判らない。敵は燃えやすい物から焼夷剤を遠ざけようとするかもしれないが、爆薬と焼夷剤が詰め込まれているので、消防士達は粉々に吹き飛ばされる危険にさらされるか、燃え尽きるまでただ待つしかないだろう」と述べている。
予め決めておいた手はずのどおり、前日の27日、サイパン島のアイスリー基地の第73爆撃兵団所属の米軍のB─29スーパーフォートレス爆撃機1機が7日の午前8時31分に津市上空でM─26伝単(ビラ)撒布専用の爆弾ケースを3発投下した。
この伝単には「空襲を予告」する文が印刷されていた。この空襲を予告するビラ(米軍はリーフレット、日本軍は伝単と呼んだ)を空中から撒く「リーフレット心理作戦」は第12回中小都市空爆で試されることとなる。
このビラは縦約14センチ、横約21センチの両面刷りで、裏面に爆撃中のB─29が5機と、空爆を予告された12の都市名、青森、西ノ宮、大垣、一ノ宮、久留米、宇和島、長岡、函館、郡山、津、宇治山田、東京が書かれており、これら都市のうち6都市が予告どおり7月29日未明にかけて空爆された。
表面には「日本国民に告ぐ あなたたちは自分の親兄弟の命をたすけようとは思ひませんか。助けたければこのビラをよく読んでください。数日の内に裏面の都市の内、全部若しくは若干の都市にある軍事施設を米空軍は爆撃します。
この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。軍部がこの勝目の無い戦争を長引かせる為に使ふ兵器を米空軍は全部破壊します。けれども爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません。御承知の様に人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくありません。ですから裏に書いてある都市から避難してください。
アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です。アメリカの考えている平和といふのはただ軍部の圧迫からあなた方を解放することです。さうすればもっとよい新日本が出来上がるんです。 戦争を止める様な新指導者を樹てて平和を恢複したらどうですか。この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知れませんが、少なくてもこの裏に書いてある都市の内、必ず全部、若しくは若干は爆撃します。予め注意しておきますから裏に書いてある都市から非難して下さい」という爆撃予告文で埋まっている。
津市の市民はこのビラを読み、実際に避難しようとした人々がいます。ある手記が『津の戦災、1986年、津平和のための戦争展実行委員会編』に出ています。関係部分のみ引用します。他の書物を渉猟(しょうりょう)しましたが、これ以上の生々しくかつ鮮度の高い証言は見当たりません。

「憲兵に殴られた痛み。奥山 慎一郎 昭和20年7月、夜8時頃、警戒警報が発令されると両親が『今夜は津に焼夷弾を落とすと書いたビラがまかれたそうだから若い者は早めに青谷の岩田池まで逃げておけ』とすすめられたので私と姉(16歳、19歳)は急いで逃げました。
西阿漕にあった憲兵隊の前まで来たら『コラッ、止まれ』と憲兵に阻止され『この非国民め、夫婦で逃げるとは太い野郎だ、ブタ箱にぶち込んでやる』と二人とも横づらを5、6発殴られてから『そこに座っておれ』と砂利道に並んで正座させられました。
私達が捕まったことを知ったほかの人達は逃げ帰ったようでした。警戒警報が解除されたあと、住所氏名年令等調べたられ上、『二人とも未成年者だから今夜の処は見逃してやるが、今度逃げて来たら両親は刑務所送り、お前は銃殺刑にしてやる』等と散々おどかされて真夜中すぎにやっと釈放されました」。

この憲兵の行為は1939年4月5日公布、同年10月1日施行の「防空法」に根拠がある。
この法律は要約すると空襲時における「退去の禁止」、「応急消火義務」などを求めたもので、政府は終始徹底を図るため、昭和18年に内務省から『時局防空必携』を各家庭に配布した。「逃げるな。火を消せ」と命ずる法律です。運用基準の「内務大臣通牒(つうちょう)」では「退去を行わせない」と禁止を強制した。
(次号に続く)                 (津市在住。英語、英会話講師)

津友の会は、7月18日(土)10時~15時(入場は14時半まで)、三重県総合文化センターフレンテみえ1階生活工房で、同会の創立50周年記念行事として「生活ひろば~食べるってだいじだよ!」を開く。
「生活ひろば」は〝良い家庭からよい社会〟を目指す同会が、子供と大人に良い生活習慣を習得してもらおうと夏休みの初めに毎年行っているもの。今年は親子で「食」について考える内容。
▼生活リズムをつくる…四回食ってなあに?
▼早ね早おき朝ごはん
▼おはしをちゃんともてるかな?
▼作ってみよう、ポテトもち(※定員100名)
▼おにぎらずを作ろう!(※定員100名)
▼だしカフェ・この味わかるかな?(※定員100名)
入場無料だが※印は参加費100円が必要。
問い合わせは、津友の会☎津225・9150。
▼津友の会が所属する(公財)全国友の会は、1930年、ジャーナリストで教育者でもある羽仁もと子さんを中心に雑誌「婦人之友」の愛読者によって設立された全国組織。「よい家庭をつくることからよい社会をつくりたい」を掲げて活動。国内外に187の友の会があり、会員は約2万名。健全な家庭を作り、社会の進歩に役立とうと年代を越えて学び、働きかけている。
津友の会は昭和40年5月に創立。会員約60名が津市半田尺目にある「津友の家」を活動の拠点とし、衣・食・住・家計・子ども・環境などについて年代を越えて学び合うほか、フレンテまつり、わあむ津、つ環境フェアなど、県や市が主催するイベントにも積極的に参加している。

津市垂水の石水博物館は明日7月17日(金)から同博物館40周年記念として「所蔵名品展Ⅱ─川喜田家コレクション編─」を開く。会期は8月23日(日)まで。 同館は昭和5年に地域文化の振興と社会福祉活動の拠点として川喜田半泥子が津市本町(現・東丸之内)に設立した財団法人石水会館を母体とする。
博物館登録となってからは津市丸之内の展示施設で展覧会を開いてきた。昭和50年に三重県教育委員会の博物館登録簿に登録されて今年で40周年を迎える。
平成22年に公益財団法人石水博物館に変更すると共に、半泥子の自邸と戦前の窯があった津市垂水の千歳山に展示施設を新築し、同23年5月に移転開館した。
陶芸家としても知られる創設者半泥子の周辺調査や作品の紹介は同館の大きな活動の一つとなっており、半泥子の精神や伊勢商人の文化を重んじつつ、同氏の作品と共に川喜田家から引き継いだ文化財を保存、管理、公開し、地域に根差した文化活動を行っている。
今展では、川喜田家の歴代当主が蒐集してきた美術品や歴史資料の中から選りすぐりの名品を展示。学芸員のギャラリートークもある。
入館料は一般500円、高校生以上の学生300円。開館は10時~17時(入館は16時半まで)。休館は毎週月曜(但し祝日の場合は翌日。7月20日の月曜祝日は開館。21日休館)。
問い合わせは同館☎059・227・5677。

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