津市香良洲町の『津市香良洲歴史資料館』は、かつて同町にあった「三重海軍航空隊」の予科練生の遺品を800点弱所有している。何れも平成10年に同隊関係者が旧香良洲町に寄贈したもので、平和の尊さや戦争の悲惨さを今に伝える貴重な資料である。しかしこのうち約500点が24年に同館がリニューアルしてから現在まで館内の倉庫に収められたままで、合理的な理由もなく3年以上展示されていないことがわかった。

 

予科練生から家族への手紙などが展示されている遺品室

予科練生から家族への手紙などが展示されている遺品室

「予科練」とは、昭和5年に旧海軍が始めた航空機搭乗員の養成制度のこと。
同制度のもとで「三重海軍航空隊」を含め全国19カ所に予科練航空隊が設置され、当初は14歳以上、20歳未満の志願者から試験の合格者が採用された。
また同隊は昭和17年に発足。敷地面積は約1・3平方㎞で、香良洲町の総面積(約3・9平方㎞)の約3分の1を占めていた。入隊した少年達は海軍飛行予科練習生として厳格な教育や猛訓練を受け、操縦・偵察などの専修教程を経て海空戦に参加。特攻隊となった人も多く、大勢が、若桜が惜しまれつつ散るように散華した。そして昭和55年、同隊関係者らでつくる「若桜顕彰会」が、予科練生の顕彰や慰霊のための遺品展示スペースを備えた宿泊施設「若桜会館」を建設。この会館が、『津市香良洲歴史資料館』のルーツである。
平成10年、同顕彰会会員の高齢化などが理由で、若桜会館は展示されていた手紙など800点弱の遺品と共に旧香良洲町に寄贈され宿泊施設から歴史資料館となった。その後、平成18年の市町村合併により津市に移管され現在に至る。
平成24年4月には、「戦争と平和」をテーマにした資料館としてリニューアルした。ところがこれ以降、展示される遺品の数が激減し内容もほぼ変わっていない。具体的には3階の「遺品室」に275点程が展示され1階の企画展示にも一部が出されているが、それ以外の約500点は、現在まで3年以上、倉庫にしまわれたままになっている。
資料館を担当する市教委生涯学習課によると、リニューアル時に予科練の概要を紹介する展示を設けたり、展示にストーリー性を持たせるためなどの理由で、遺品展示のスペースや数を減らした。現在、遺品室で入れ替えし展示数を増やす必要があると考えているものの、入替の計画に要する期間や担当する職員さえ未定だという。
さらに、展示中の遺品に添えられている説明は、ごく簡単なもので、具体的にどの様に使われていたかや、その遺品に込められた関係者の思いなど、平和や戦争に関する資料としての本質にはほとんど触れられていない。
ある顕彰会関係者は「遺品の展示数が減ったことは腹が立つ。私の仲間の遺書も展示されていない。入れ替えしたり、もっと見やすいよう説明を付けるなどして、もっと丁寧に、親切に展示してほしい」と改善を強く望んでいる。
また香良洲町在住で、同町や同隊の歴史を研究している岡野允美さん(72)も「遺品は美術品ではないし資料館の来場者は空間のデザインではなく展示品を見に来るのだから、展示数をもっと増やし、生かしてほしい」と求めている。
寄贈された遺品にはそれぞれに異なる物語があり、物としては同じ「手紙」でも、資料としては一つひとつ違う。従って充実した展示を実現するには、800点弱全ての公開を目指す実践的な取り組みが不可欠。
また本来、遺品に添える説明文は、その遺品の本質を良く知る予科練出身者などへの入念な聞き取り調査を行い、その結果を生かして作成されるべきだろう。市職員自身が戦争体験者から積極的に学び、得たものを展示に反映させなければ平和の尊さや戦争の悲惨さを次世代に伝えることなどできない。
今年戦後70周年、時の経過と共に戦争が風化していることもあり、市教委の遺品展示における消極姿勢の改善が早急に求められる。

津市仏教会(大竹宣誠会長)は、今年も18日(火)19時から、津観音北隣りの仏教会館で市民参加の『精霊総供養』を行う。
津市民はみんな縁あって同じ地域に暮らす家族と同じ、という想いから市民みんなで戦没者やご先祖、初盆の人、水子、知人・友人の供養を宗派を超えて行うもので、誰でも参加できる。 津市仏教会加盟の各宗派の僧侶多数が一堂に集まり色衣五条に身を包み、厳かに読経して供養する。菩提寺の無い人や、あっても遠方なので簡単にお参りに行けない人なども、この機会にと毎年大勢の市民が集う。
供養志は1000円〜。申し込みは当日13時〜19時半まで仏教会館で。
問い合わせは田中さん☎090・1989・0448または☎059・262・6715。

「また地震!今度はどこ?」ニュース速報で流れる緊急放送に思わずドキッとしてしまう。東海、東南海、南海地震が連動して発生したのは一六〇五年、一七〇七年のこと。一七〇七年は宝永地震といわれ富士山が噴火し宝永山ができた。
その二年後に谷川士清が生まれていることから、しっかりと覚えた。
日本は火山帯の上に位置しているから火山の噴火や地震はいつ起こるかわからない。両者の関係を武蔵野学院大学特任教授、島村英紀氏が次のようにコメントされていた。「過去に大地震がおきると地震の一日後から五年くらい後までに半径六〇〇~一〇〇〇キロ以内の複数の火山が噴火しています。これは本州が覆われるような範囲で、これからも日本列島のどこで火山件の噴火件が起きても不思議ではない」。
記憶に新しい火山噴火は二〇一四年九月二七日の御嶽山(長野県)で山頂付近にいた登山客がまきこまれた。他には、二〇一五年五月二九日に口永良部島(鹿児島県)新岳が噴火し全島民が屋久島に避難した。同年六月一九日には浅間山が噴火している。
活火山の代表、阿蘇山に私は数多く思い出がある。最初に訪れたのは津校生であったときの修学旅行。恐る恐る火口をのぞきこみ、友と雄大な景色をバックに笑顔で写真に収まった。
高校教師になってからは、二年の担任になる度に訪れ、他の場所より神経を使って生徒を引率した。初年度、事前調査もしていたのに、幼児期に軽い喘息になった生徒が発作をおこし、クラスは副担任に任せ保健の先生と病院へかけこんだ。幸い発作は収まったが、その後、軽い喘息でも経験者は待機するよう規則を厳しくした。草千里で寝そべって流れる雲を見るなんて完全に夢であった。退職してからやっとのんびり阿蘇を訪れ、火山国の恩恵、温泉へと足を運んだ。
日本人は何度も大噴火や大地震にあいながらも、生活を建て直し美しい景色を取り戻す努力をするすばらしい底力を持つ民族と言える。火力発電を地震国日本に作るとは自然をあまりに甘く見ている。
さて、わが敬愛する谷川士清は日本で初めて五十音順に並んだ辞書『和訓栞』を書いた人で一七〇九~一七七六年に生きている。その間大地震や火山の大噴火はなかったようだが、『和訓栞』に次のように記してあった。
あさま…絶頂に大坑あり径十町はかり常に煙立のぼりて硫黄の気あり大焼の時八五七里か間鳴動し茶碗皿鉢の類も響きて破るる事あるといへり…
あそ…この阿蘇ハ肥後の阿蘇山也桓武紀に肥後言阿蘇山神霊池水涸甘餘丈と見ゆ…
おんだけ…俗に木曾の御嶽をかくいへり富士浅間にならふ高山なり…
『和訓栞』は全九三巻を前編・中編・後編に分け、それぞれ「アからオ(ヲ)」まで載せてある。前編は古言と雅語中心、中編は雅語中心、後編は方言、俗語、外来語が中心である。「あそ」は前編に、「あさま」と「おんだけ」は中編に載っていた。
当時は出版費用が非常に高く、士清は自分が死んだあと、子孫の人たちがお金の工面がしやすいようにと配慮したのであろう。
子孫は百十年かけ、すべての財産をつぎ込んで明治二十年に全巻を出版し終えた。谷川士清旧宅は津市教育委員会が管理し、月曜日休館、入場料無料で公開している。ぜひ訪れて郷土の偉人の業績を知っていただきたい。旧宅☎059・225・4346
(谷川士清の会顧問)

[ 1 / 6 ページ ]12345...Last »