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天変地異で飢饉が頻発した江戸中期。農耕神『地神』の新しい祀り方として大江匡弼が天明初期に提唱したのが、農耕に関わる5柱の神名を刻んだ石柱『五神名地神碑』を建て祀る方法。寛政期以降全国に広まり明治まで数多く建立された。このほど津市美杉町八知の仲山神社で発見された碑は天明8年2月建立。全国で天明期8例目、中部・近畿では最古例。
発見したのは津観光ガイドネットの『JR名松線復旧記念ウオーク~奇跡の名松線・各駅停車ええとこめぐり』プロジェクトチーム(PT)=吉村武司会長。
同ウオークは10月から来年3月下旬まで津市内の伊勢八太駅~一志駅間を皮切りに、終点伊勢奥津駅まで全10回に亘り、沿線ガイド団体の一志町歴史語り部の会・白山道しるべの会・伊勢本街道美杉会が連携して沿線の名所旧跡などを案内して歩き名松線の観光路線としての価値を高める一助にしようと企画したもの。
一志・白山はこれまで名松線や近鉄を活用したガイド企画の経験があるが、美杉会は伊勢本街道を軸としてきた関係で名松線沿線の竹原・八知地区は空白地帯となっていた。このため6月初旬から美杉会の小竹英司会長らに吉村PT会長や西田久光ガイドネット会長らがサポートに入り、伊勢竹原駅~伊勢鎌倉駅、同鎌倉駅~伊勢八知駅のコース・案内ポイント設定のための現地調査を進めており、これが八知・仲山神社正殿境内での『五神名地神碑』発見につながった。
碑は3段の基壇上に六角石柱を建て全高約90㎝(大洞石製か)。六面に『天照皇太神宮』『大己貴命(おおなむちのみこと)』『少彦名(すくなひこな)命』『埴安媛(はにやすひめ)命』『倉稲魂(うかのみたま)命』…5神名に『天明八戊申□(1字判読不明)二月』=1788年=の建立紀年が刻まれている。
地元では方位盤と見られてきたようだが文献調査の結果、江戸中期から各地で建立が始まった『地神(じじん・じがみ)碑』の一種で、京都出身の民間学者・大江匡弼が天明元年に出版(寛政元年再版)、新しい地神(農耕神)祭祀法を提唱した著作『神仙霊章春秋社日醮儀』に基づく『五神名地神碑』であることが分かった。
大江は農業こそ天下万民の基盤とし中国の『礼記』『礼記説義纂訂』などに示された土地神を祀り悪気を払う方法に倣い、日本の農耕の根幹に関わる5神名を刻んだ碑を建て、春分・秋分の日に近い戊(つちのえ)の日である『社日(しゃじつ・しゃにち)』に祭祀を行うことで、大地に感謝を捧げ鎮め、天下泰平、五穀豊穣が招来できると提唱している。因みに春の社日は山の神が里に降りて田の神に変わる日、秋の社日は収穫を終えた田の神が山の神となって山に帰る日とされている。
石仏研究者達に確認されている『五神名碑』の最古例は天明3年~7年の大飢饉の最中の天明6年秋(1786)神奈川県小田原市で建立された六角柱のものと自然石に五神名を刻んだものの2基。寛政期以降は関東、四国、岡山、九州、山陰などに広まり千基以上が確認されているが、天明期の碑は極めて少ない。
西田会長が『岡山の地神様』『石刻の農耕神~その発生と展開~』などの著書がある岡山市在住の農耕神研究者・正富博行氏に、碑の計測データ、写真等を送り問い合わせたところ、氏が現在把握している中で最初期の天明期碑として仲山神社碑は、小田原市6基、岡山県吉備中央町の1基に続き8例目で、古さは7番目。後年も含め確認事例が少ない中部・近畿地方では最古の貴重なものという。
正富氏は三重県内の事例として『石刻の農耕神』で伊賀市霧生の天保9年(1838)碑を、また専門誌『日本の石仏』2015夏号に伊賀市腰山、飛龍神社境内碑(紀年なし)の2基を紹介している。
自然災害や飢饉に苦しむ農民たちが必死の思いで祈りを捧げたであろう『五神名地神碑』…従来ほとんど空白地帯と思われていた三重県に突然最初期のものが発見され、正富氏は返書にその驚きを記し、県内での調査継続を要請しているが
ガイドネットでは吉村・西田両氏を中心に続行中。
9日までに伊賀市の2基と玉城町の文政10年(1827)碑を現地調査。更に『白山町石造物悉皆調査事業報告書』で家城3基(1基に嘉永4年の紀年)、関連の『社日』碑5基(文政4年、天保8年、慶応元年ほか)。『三重県石造物調査報告書』=東紀州、南伊勢=で五神名碑が大紀町5基、大台町5基、多気町1基、度会町1基、あることも確認。今後も県下の調査を進めていく計画。
名松線PTでは、仲山神社には他にも室町時代や元禄期、幕末など多彩な石造物があり、石造物の宝庫として伊勢鎌倉駅~伊勢八知駅間散策の目玉になるものと期待している。
2015年8月15日 AM 5:00