三重県名張市蔵持町にあった蔵持国民学校(現在の名張市立蔵持小学校)が昭和20年6月9日の午後に米軍戦闘機の機銃掃射を受け、同校二階の講堂の北側にあったアップライト・ピアノが3発の機銃弾で被弾した事件がありました。これはその機銃掃射事件を詳らかにするものです。
阪神地区の大阪市や神戸市の空爆を終えた米軍「ボーイング スーパーフォートレスB─29爆撃機」が同市上空をかすめて熊野灘に離脱、あるいは名古屋市や岐阜県の爆撃目標地に向かう際に名張市上空を飛行した。名張市は、B─29や同機を援護する戦闘機「ノースアメリカンP─51ムスタング」や、滋賀県の八日市飛行場などを攻撃するために太平洋上の航空母艦から飛び立った艦載機の「F─6─Fグラマン・ヘルキャト、F4Uコルセア戦闘機」などの飛行ルートだったわけです。
この6月9日から少し遡る6月5日には、1機のB─29が名張市の青蓮寺に撃墜されています。これは神戸市を爆撃後、右旋回して名張市上空から熊野灘に離脱しようとしていた同機(機長アーノルド大尉、第58爆撃航空団所属、テニアン島西飛行場、機体番号44─69996)が名張市上空で三重県伊勢市明野の陸軍飛行第111戦隊の西村光義大尉が操縦する「5式戦闘機」に午前9時頃に撃墜されたものです。この事件により名張市市民の方々にも戦争の影が身近なものになってきていました。
6月9日、日本時間の午前8時29分、太平洋上の硫黄島基地の中央滑走路から、アメリカ陸軍航空隊、第7戦闘機コマンド、第21戦闘機大隊所属の第64、72、531戦闘機中隊の「ノースアメリカンP─51ムスタングD─20─NA」戦闘機が「日本本土中京地区の陸海軍飛行場に機銃掃射をせよ」という命令を受けて発進しました。
第46戦闘機中隊は16機で第一攻撃目標は岐阜県の各務ヶ原飛行場に機銃掃射を浴びせることがその主任務でした。第72戦闘機中隊は15機で各務ヶ原飛行場、第二目標は愛知県の明治基地でした。第531戦闘機中隊は21機で各務ヶ原飛行場、第二目標は明治基地、第3目標は静岡県の浜松飛行場でした。合計54機がこの日の機銃掃射任務に就いたわけです。
マリアナ諸島を基地とするアメリカ第20航空軍のB─29は、1945年(昭和19年)11月24日の中島飛行機武蔵野工場に対する爆撃を皮切りに日本本土空襲を開始。翌年の3月10日の東京大空襲を契機として、日本各地の空襲は日常化することになります。
4月7日、硫黄島を占領直後からP─51がB─29に随伴飛行するようになり「戦爆連合」が確立されました。
B─29とP─51の日本侵攻パターンはまずマリアナ諸島の基地からB─29が発進し、途中硫黄島から発進したP─51と合流(ランデブウ)し、P─51はB─29に先導されて日本に侵入、B─29の爆撃援護、またはP─51が機銃掃射をした後、帰路は再びB─29に先導されて硫黄島の基地に戻る手はずになっていました。
P─51群が攻撃中は先導機のB─29は日本沿岸上空を旋回して待機。P─51群は30分~60分で任務を終え、B─29が待機する集合場所に戻らなくてはなりませんでした。
これら3戦闘機中隊のうち、第46戦闘機中隊の「青小隊、小隊長コービン中尉」が率いる4機が各務ヶ原飛行場に向かう途中に三重県の北伊勢陸軍飛行場(亀山市能褒野町から鈴鹿市広瀬町に広がっていた)に機銃掃射を浴びせるために編隊飛行から離脱しました。この時間、およそ日本時間の午後12時過ぎのことです。
以下は硫黄島基地から発進したときの、この中隊の編成です。
◆赤小隊:ウオーレン大尉、ホフ、コイル、パースレイの各中尉◆黄小隊:ゴードン、ロビンソン、スローン、ダンの各中尉◆青小隊:コービン、キルキュースキーその他二名の中尉◆緑小隊:メットカーフ、ノーフ、ブリーン、ノーリンの各中尉◆予備機:ゲルリッチ、ロワーズ、コービン、ドラブスの各中尉
「青小隊」は北伊勢陸軍飛行場の北方面から南方面にかけて飛行機格納庫、建築物、軍事施設等に機銃掃射。その後「臨機の攻撃目標」に機銃掃射を繰り返します。「臨機の攻撃目標」とは、予め決められた攻撃目標ではなく攻撃に値すると考えられる「標的」に対してパイロット自身が判断して攻撃するもので、B─29スーパーフォートレス爆撃機にもこれはありました。(次号に続く)