(前回からの続き)
小回りの利く小型の戦闘機は「臨機の目標」の飛行場、電車、汽車、灯台、船舶、人などに、機銃掃射を執拗に繰り返しました。
三重県下の機銃掃射事件の殆どは、これらによるものです。小型の戦闘機には硫黄島から発進した米陸軍の「P─51ムスタング」や米英海軍の航空母艦から飛び立った「グラマンF6Fヘルキャット、F4Uコルセア」などがあります。
小型戦闘機を全て「艦載機」と呼ぶのは正しくありません。「艦載機」は海軍機です。しかしこの「艦載機」という呼び方は戦時中に新聞等で使用され、それが一般化したものですが、航空母艦に搭載された戦闘機等は日本では「艦上機」と言います。「零式艦上戦闘機」がその一例です。
第72戦闘機中隊は北伊勢陸軍飛行場に機銃掃射しました。その後、同飛行場の北方で6~7の鉄道客車に、また鳥羽の近くの入り江で2隻の船舶に機銃掃射しました。
三重県名張市蔵持町原出の蔵持国民学校、現在の名張市立蔵持小学校は小高い丘の上にありました(海抜195メートル)。校舎は津市にあった三重県師範学校の本館を移転改築したもので、中央玄関の上にバルコニーのある二階建ての白い立派な建物でした。
しかし、白色では敵機に目立ち標的になりやすいと危惧されたので、当時の村長である松山七三さんが多額の私費を投じて黒色に塗りなおしたのです。
当日、名張地区には空襲警報が鳴り響いていました。藤山常一校長は生徒全員にシャックリ川の堤防に避難するよう指示し、自身は校庭の北側から生徒の状況を監視していました。
間もなく、敵機が北方より飛来してきたので、校庭に掘ってあった防空壕にあわてて飛び込んだ。その瞬間、米軍戦闘機が校舎に対し機銃掃射を始めると、防空壕の上に校舎の瓦の破片が降ってきました。
校長は、戦闘機が去るのを見届けて、シャックリ川に急きょ駆けつけましたが、幸いなことに一人の負傷者も出ささずに安堵しました。見上げると、校舎の天窓からムクムクと煙が出ており、学校に戻りよく調べてみると弾が当たった壁が微塵に破壊され、直径40センチもある木の柱を貫通し、さらに廊下の大きな柱も貫通していたのです。
また、階段の石を破壊して大きな破片が転がっており、そのほか40発以上の弾が校舎に命中していました。この時、二階の講堂の北側、中央階段を上がって入り口のドアのすぐ右側に置いてあったアップライト・ピアノの右側下部分に背面から3発の機銃弾が貫通したのです。
前述のP─51ムスタング戦闘機群のうちの1機が前方の丘の上に立つ二階建ての大きな建物を捉え、これに機銃掃射すべく高度を下げ、操縦席の前に設置されている照準器に蔵持国民学校の背面中央部を捉え、機銃掃射ボタンを押しました。校舎までの距離およそ300メートル。機体に機銃弾発射の振動を残し曳光弾の発する白い煙と共に、機銃弾が黒塗りの校舎の背面に吸い込まれていった。戦闘機の低空での爆音と機銃掃射の破裂音が耳に突き刺ささった。一瞬の出来事だった。
この時に機銃掃射したP─51ムスタング戦闘機には左右の主翼それぞれに3丁のブローニングAN─M─2 12・7ミリ機関銃、合計6丁が装備されていました。この機銃は装甲弾、焼夷弾、曳光弾、通常弾を一組みにして連射できます。貫通力は距離200メートルで装甲弾は2・5ミリの装甲鉄板を、通常弾は5センチのコンクリートを貫通する威力があります。
米軍の戦闘機は低空での機銃掃射は平均的に時速400マイル、機銃掃射時間は約1秒です。つまり1秒で約170メートル飛行する。機関銃の発射能力からみて、約80発の機銃弾が蔵持国民学校をめがけて撃ち込まれたことになります。 多くの「空薬きょう」が降り注いだに違いありません。「被弾ピアノ」に残る機銃弾の痕から推測すると、P─51の高度は運動場の上空およそ15メートルくらいだったと思われます。もっと低空だったかもしれません。「被弾ピアノ」には横幅9センチ以内に3発の機銃弾貫通恨があることからも、P─511の機銃弾の集束点で狙い撃ちされたことが判ります。校舎から運動場に一直線状に機銃弾痕があったに違いありません。
本作戦ではP─51戦闘機が二機墜落しています。第72戦闘機大隊の、ガーランド・R・コトル中尉(認識番号0─763507)機が日本軍の地上からの対空機関砲に被弾して鳥羽市東方海上に墜落。中尉は戦死。531戦闘機大隊のデイビッド・C・フラー少尉は大王崎沖に機外脱出してパラシュート降下したものの救助されず、戦死。
この日、P─51戦闘機群は三重県下では宇治山田、上野、志摩、度会、阿山、名賀などの農村や漁村の民家などに機銃掃射し、一部に火災が発生しています。
今、この「被弾ピアノ」は名張市の「武道交流館いきいき」に展示されています。
同年7月24日、午前8時頃、米海軍第58任務部隊所属の航空母艦「ハンコック」から飛来したR・W・シューマン少佐が率いる12機の「グラマンF6Fヘルキャット戦闘機」のうち、2機が名張市の「赤目口駅」に停車中の電車に機銃掃射を浴びせ、その結果、50余名が死亡、110余名が負傷するという大惨事となりました。
この事件は戦時中における名張市での最悪の戦災です。この事は、永く記憶にとどめ置かれるべきことです。私はこの無辜(むこ)の非戦闘員に向けて無差別に機銃弾を撃ち込むという「戦争犯罪というべき」事件を引き起こした指揮官のシューマン少佐に疑義を糺(ただ)すため質問の書状を送りましたが返事はありませんでした。
もう10年以上も前のことです。この日の「作戦任務報告書」の原本には「赤目で列車に機銃掃射した」と明記されています。
参考文献:『蔵持小学校百年史』(三重県津市在住、英語講師)