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(次号からの続き)
北緯31度47分、東経135度5分に位置する空母「ベニントン」から午後12時20分に7機のVBF─1、第1爆撃飛行隊所属の「コルセア FG─1D」がJ・W・ロウリー大尉に率いられて発進した。
「尾鷲湾の日本軍艦艇を攻撃せよ」という命令を受けていた。それぞれの「コルセア」は1発の500ポンド汎用爆弾AN─M67A1と4発のロケット弾を搭載。それと同時に「VF─1、第1戦闘機隊のグラマンF6F─5ヘルキャト戦闘機」4機も出撃した。 両飛行隊はロウリー大尉が率いた。この作戦は元々「戦闘機による掃討作戦」だったが、尾鷲湾に停泊する日本軍の艦艇の攻撃に変更されたものである。
この攻撃は最初に艦艇を発見した「ハンコック」の7機の「グラマン F6F─5 ヘルキャット戦闘機」と予め決められていた空域でランデブー(合流)し、攻撃をうまく調整するようにとの指示が出された。尾鷲湾では午後1時30分から2時30分、1時間に亘り、波状攻撃を日本軍艦艇に繰り返した。
尾鷲湾では「第45号海防艦」が古里海岸に午前8時15分頃に坐洲していた。また、「第14号駆潜艇」は尾鷲港内の北川河口近くに位置していた。小型輸送船が湾の北西部に停泊していた。
攻撃調整官は南部の「第45号海防艦」に対して6機の「コルセア」に攻撃せよと命じた。「コルセア」は1万フィート上空から60~70度の角度で急降下して、3500フィートで爆弾を投下。5発のうち、2発が艦艇の20フィート以内に投下された。
確かな損害を与えたようだ。2発はロウリー大尉とモックスリー中尉が投下したものである。1万フィートを飛行していた「ヘルキャト」のパイロット達は1発の爆弾は「直撃弾」だったと証言している
それから「コルセア」は北方の「第14号駆潜艇」に対して「ロケット弾で攻撃せよ」と指示された。3回に分けられて24発のロケット弾が撃ち込まれた。また1発の500キロ爆弾が投下され、爆弾1発が直撃した。全攻撃は8000フィート~1万フィート、攻撃角度40~60度、投下高度2000~3000フィートであった。
バリック少尉による2発のロケット弾がこの第14号駆潜艇の船体中央部に命中した。直ちに火災が発生、炎上し、自ら北川河口付近に午後3時頃に座礁した。 攻撃調査官は「VBF─1」第1爆撃戦闘機隊のパイロットに「第14号駆潜艇」を航行不能にしたことで、そのパイロットに手柄を与えた。
日本軍艦艇からの対空砲火は貧弱乃至まずまずだったが正確だった。攻撃中にO・F・フイシャー少尉の戦闘機のエンジンが被弾した。最後の急降下攻撃をかけた時のことだった。
すぐにオイルが漏れ出した。彼の小隊の隊長であるL・テリー中尉が悪天候の中、「ベニントン」まで引き返す飛行に随伴した。
「ベニントン」に帰艦するまでに、フイシャー少尉機の風防ガラスがオイルで覆われてしまった。彼は「あと5分くらいしか飛行できない」と無線で連絡してきた。母艦は「今直ちには彼を着艦できない」というシグナルを送ってきた。
彼は着艦指示官に手旗信号により「今すぐには着艦できない」というシグナルを送られたのだ。風下の中、彼は300フィートで旋回し、それから2度目の着艦を試みた。彼の戦闘機は背を下にして、ひっくりかえり海の中へ墜落していった。フイシャー少尉機は発見されなかった。この日の戦闘での米英側における唯一の戦死者である。「第45号海防艦」の第6番25ミリ単装機銃は無傷であった。それで砲手は果敢に敵機を撃ち続けていた。フイシャー機は恐らくこの6番機銃の砲弾に被弾したのであろう。
テリー中尉とフイシャー少尉が尾鷲湾を離れた後、残りの戦闘機は名古屋方面に向かい、鳥羽近くで北に向かって走行中の列車を見つけた。そして先頭列車に対して機銃掃射し、エンジン部分に命中した。
列車はトンネルに半分入り、半分トンネルから車両を出した状態で止まった。午後4時40分に帰艦。攻撃滞空時間は4時間であった。この攻撃をもって、尾鷲湾の日本軍艦艇に対する攻撃は全て終了した。
この日の戦闘で、即死者72名(総戦死者147名)重軽傷者はおよそ250名に達した。負傷者は尾鷲国民学校(現在の尾鷲小学校)の講堂や教室に収容され、医師、看護婦、在郷軍人会、国防婦人会および海軍将兵及び市民総出で応急手当にあたった。
止血のために包帯、三角巾、昇こうガーゼ、手拭がかき集められた。この時代にはエアコン設備など無い。真夏の蒸しかえる暑さの中での手当てで、全員汗だくだった。
負傷者は木製の床の上に寝かされていた。床の上にはあちこち血痕が点々とあった。手当てする者も手や衣服が鮮血に染まった。あちこちで苦痛、断末魔のうめき声が聞こえた。手当ての甲斐なく多くの兵士が絶命していった。尾鷲市史始まって以来の大惨事となった。
それから1~2日すると尾鷲港、尾鷲湾、引本、須賀利湾に戦死者の遺体が次々に浮かんだ。発見のたび通船を出して遺体収容にあたった。損傷がはげしく、ほとんどの氏名が判らなかった。そこに「戦争の実相」を目の当たりにした。
将兵の着る軍服には通常、氏名が墨書きで書き込まれた「記名布」があるのだが、氏名不明の将兵は軍服を着用していなかったのであろうか。それとも爆風で吹き飛ばされたのか、火炎で焼けてしまっていたのだろうか。
(次号に続く)
2016年5月19日 AM 4:55