一昔前にかなり流行したドラマと映画のシリーズがありました。その主人公である「はみ出し」者の警察官が、上司たちに向かって叫ぶ言葉。「事件は現場で起こってるんだ」。
それを聞いた瞬間に私が心の中で叫んだことは「教育も現場で起こってるんだ」でした。
私の専門は教育史で、特に明治期に日本に学校が創られたときから、その学校のなかで誰がどのように誰にどんなことを教えていたかを考察しています。そのとっかかりが音楽教育で、趣味の音楽と大学で学ぶ教育学をくっつければ探究心が強くなると思っただけのことでした。おかげで予想をはるかに超えて指導教官にもあきれられるほど研究できましたが、まさか、その後に私自身が実際に小学校の教員となり、しかも音楽専科としてそれなりの評価をいただくようになることまでは思っていませんでした。
私が三重県の音楽教育を子どもたちと初めて行った人物やそのときの様子について調べたのは、今から40年近くも前のことで、インターネットなどの便利なものもなく、その上、先行研究はまったくないときでしたから、何をするにしても、手探りで自分で歩いて現地で関係の史料を探さなければなりませんでした。三重県で最初に音楽教育を始めた人が、今の菰野町出身で三重師範学校の最初の音楽教員になった金津鹿之助であったことも、そのようにして、私が発掘したことです。(詳しくは拙著参照)ちなみに、それを調べているときが「三重県教育史」の編纂の最後の段階で史料がたくさん集められていましたので、担当の松村勝則先生のご厚意で、弁当を持って何度も史料の閲覧と筆写に通いました。
津高校の恩師で齋藤拙堂の研究者でもあった杉野茂先生には草書の読み方を習いました。
大学院で戦後の音楽教育を文部官僚の立場で長く牽引してこられた真篠将先生から、調べたことの実証性を上げるようご教示いただき、亡父伊東功を通して菰野町の教育関係の方々に依頼し、そこで、たまたま金津鹿之助を直接知るご子孫や縁者にあたる方々とお会いできました。そのときは、私の方が金津鹿之助の業績や郷里に戻るまでの足跡をお伝えする立場になり、大変喜んでいただき、貴重なお話や史料を得ることができました。
教育研究と言えば、法律や制度の様子だけで語られることが多いのですが、実際に、学校で誰がどのように誰に何を教えているか、が本当の教育だ、ということを私は言いたいのです。今では、教育の実態史ということでたくさんの研究業績がなされるようになりました。学校現場から離れた教育研究は机上の空論ということが当たり前になりました。もともとルソーもペスタロッチもフレーベルもデューイも自分で子どもたちと学びの創造を経験することから教育学を考えました。日本のそういう先人たちの発掘も進んでいます。
今回このようなことを私が力説しているのは、このたびの教育改革について、情報の根拠が定かでない、いろんな見方や考え方があふれ、期待も不安も、賛成も反対も、本当にそうなるのかならないのか、保護者の方々にもさまざまに推測や憶測が生まれても仕方がない状況を、毎日感じさせられているからです。さらに、文部科学省や関連の情報を見ても、制度改革が始まることは確かでも、実際はどうなるのかわからないところがあります。
その理由は、「教育は現場で起こっている」からです。
つまりは、学校やそこにいる個々の教職員、地域の教育委員会などによって、教育制度は、極端に言えば、どのようにでもなってしまうからです。どのように何を教育するかは、現場に委ねられているからです。
ここで、特に私が三重県のみなさんに言いたいことを書きます。
私は若い頃から子どもたちとの音楽活動を通して、全国各地の教育現場の様子をその当事者である教員たちから知らされていました。また、未熟なころからご縁があって、私は三重県のほとんどの地域の教育研究会に講師として招かれ勉強させていただきました。
三重県は、全国的な視野から見れば、教育の実態は「相当に変わったところ」です。さらに三重県内でも、地域によって、学校や教職員の考え方がずいぶんと違いますが、これはどこの都道府県でもあることのようです。けれども三重県が、三重県内だけにいてはとても想像もできないほど、全国的には「相当に変わったところ」であるのは事実です。
ですから、このたびの教育改革についても、関心の高い教員や保護者は別として、全体としての受け止め方が甘くて、実際の教育現場で、変化があまりない、となることも十分に予想されます。そのような保護者の方々のご心配も耳にしています。
三重県の子どもたちも、始まった教育改革とは無縁ではないはずです。保護者や地域の方々は学校教育の動向と実態を注視すべきだと思います。子どもたちの近未来のために。
(伊東教育研究所)