これから、たいていの大学は、三つのポリシーを、進学希望者やその家族に直接示すようになります。進学希望者や進路指導担当者が大学を選ぶだけではなく、大学が人材を積極的に選ぶ時代になります。
それも、早いところは来年度の入学生から大学に選ばれるようになります。推薦やAOでの進学を考えている希望者は、これまでとは違った面接などを受ける覚悟をしてください。変われない大学もありますが、変わる大学もあります。
大学が示す三つのポリシーは、アドミッション・ポリシー、ディプロマ・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、です。アドミッション・ポリシーは、すでに大学のホームページなどで紹介されているところもありますので、見たことがある人もいるでしょう。どこでも同じようなことが書いてあるからそう気にしなくてもいい、と思っていると、これからはそうでなくなりますので、しっかり読んでおかなければいけません。そうでなければ、希望の大学に進学できなくなる可能性が高くなります。
アドミッション・ポリシーというのは、簡単に言えば、その大学が求める人材です。いろんな分野に均質的な学力を持っていればいい、というところならば、それはそれでいいのです。 自分から進んで課題を見つけて探究できる者とか、専門分野に特に優れた能力がある者などと、そこに示されていれば、これまでの受験勉強で「よい成績」を取れているから「合格は大丈夫」などということは言えなくなります。
それぞれの大学が入学者を選ぶのですから、それぞれの大学によって、入学させる者の判定基準が異なります。ですから、自分がその大学に進学希望する理由を考えず、「成績がそこに見合っていた」でしかないならば、とても入学できる可能性は低くなるのです。進学指導などといって、その担当者の「業績」を上げるための「駒」にされる時代は、ようやく終わるのです。
ディプロマ・ポリシーを簡単に言えば、卒業証書を渡すのはこういう学生だ、と大学が考えて示すものです。日本の大学は、資格取得などのはっきりとした場合は別として、入学が目的で、それを達成すると卒業するころには「バカ」になっているのが一般的のようです。
欧米の大学は入学するより卒業するほうが難しい、という話を聞いた人も少なくないと思います。日本も、そうする、と言っているのです。なんとか合格できても、その大学が示した目標に達していなければ卒業させないよ、という時代になるのです。これまでの日本では、「中退」でも評価されますが、これから先は、卒業して初めて評価されるようになるのです。実は、アドミッション・ポリシーもディプロマ・ポリシーも、大学院ではすでに当たり前のようになっています。それが大学でも当たり前になるだけのことです。
入口と出口だけを示して、途中は学生本人次第、というのでは無責任ですから、大学教育自体も改革する、というのが、カリキュラム・ポリシーです。
ここで登場するのが、アクティブラーニングで、大講義室でノートを取っていればいい、ということでは、大学の学修目標に到達できないことから、少人数で課題解決をし、それを表現します。
そのような授業を積み重ねて、個々の学生が主体的に卒業研究をできるようになる道筋を、大学が進学希望者に示すのです。「何をやればいいですか」「どうすればできますか」などと教員にすぐに尋ねるような者は、この大学に来ても卒業できないよ、と大学が示すのです。
以上が、それぞれの大学がこれから具体的に示す三つのポリシーです。
大学は国立大学法人も私立も、少子化のなかで人材を集め、しかも大学自らの研究実績も上げなければ倒れてしまいます。多くの大学が、喜んで三つのポリシーを考えているようです。
大学進学に直結する高等学校で、今回の大学の改革を歓迎しているのは、商業高校や工業高校、特別なコースを持つ高校、特色が際立つ高校などでしょう。
普通科の高校が、一番焦っているのではないでしょうか。そう私が考える理由は、これまでは進学の基準がほとんど一つしかなかったのが、少なくとも三つぐらいになるからです。
読み書きそろばん(基礎・基本のリテラシー)の力、求める人材を見極めるためのアクティブラーニングに関連する力、そして、自己申請による学校外での活動とその成果、の三つです。
もう高校の先生による主観的な「内申書」に「おびえる」(期待する)時代は終わろうとしています。
スポーツや文化の全国規模の大会や発明コンクール、企業が行う懸賞コンテストなど、大学側がそれらの価値づけをしてそこで優秀な成果があるならば、いくらかリテラシー面で「難」があっても、大学が求める人材になる可能性が高くなります。
こうすれば、アインシュタインもエジソンも日本から生まれる可能性が出そうです。
(伊東教育研究所)