宮田光子は大正7年(1918)9月21日、大阪の船場に生を受けた。実家の家業は金屏風の製作をしており、父親は金箔師で、わりと華やかな家庭だった。子供は男3人、女4人だった。4人の女の子は皆美人で光子は3女だった。光子は幼い頃から声の綺麗な女の子だった。それで時々、NHKの子供の時間に学校から出ていき歌っていた。
宝塚歌劇が大好きだった長男と次女がいろいろと策を練り、光子に宝塚を受験させた結果、見事に合格した。そのことを知らされていなかった両親は烈火のごとく怒った。茨木高等女学校(現在の大阪府立春日丘高等学校)も合格していたのだが、宝塚少女歌劇団に第21期生として入団した。14歳の時のことである。同期には轟夕起子や服部富子などがいる。劇名は「糸井しだれ」とした。

宝塚歌劇団・阪急百貨店・東宝をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者である小林一三に、糸井しだれが吹き込んだレコードが目に留まり、昭和13年(1938)10月2日、19歳の時、日独伊親善芸術使節団として糸井しだれも渡欧することとなる。この頃、父親は既に他界していた。
「靖国丸」で一路ナポリに向かって航海。11月4日、ベルリン着。ドイツとイタリアのあちこちの劇場で公演する。1939年3月4日、「伏見丸」で無事に帰国した。下積み生活は長かったが、帰国後にスターの座に上りつめていった。  糸井しだれは娘役のスターで、八重歯の可愛いふっくらとした美人だった。愛くるしい明るさと、甘かった歌声と共に、男性ファンを魅了した。従来の宝塚には無かった歌手だと騒がれたのは、レビュー「北京」の中で「夢の支那町」というテーマソングを歌ってからのことである。
舞台に出ると映える不思議な魅力を持っていた。ブロマイドも売れに売れていた。糸井しだれの男性ファンの中には糸井のブロマイドを懐にしのばせて、戦地に赴いた将兵もいたくらいだ。

昭和19年(1944)3月1日、「撃ちてしやまんの戦時下の今日、宝塚歌劇などは不要不急のものである」、と大政翼賛会のH氏が日本刀を腰に軍服姿で、舞台稽古を中止した東京宝塚劇場で客席に座っている生徒達にむけて一席ぶった。その日の午後4時頃、「稽古をやめて下さい。閉鎖です。東京宝塚に閉鎖命令が出ました」という通達がでた。そのうえ本拠地の宝塚大劇場も閉鎖せざるを得なくなった。これは「決戦非常措置令」によるもので、興行場は一切閉鎖された。糸井しだれは宝塚大劇場閉鎖の最終舞台で切々と「別れの歌」を歌った。

もはや、花月雪組と300人近くいる生徒を今までのように舞台を踏ますのは不可能となった。
そこで「日本移動演劇連盟に加入して、軍および産業界の慰問公演をすることが、苦境を打開する宝塚の生き残る唯一の道だ」と理事長の引田は決意し、この方針を貫くことにした。
間もなく一組を5班に分け、合わせて15班の移動隊班が組まれた。この15班が全て移動演劇隊として活動することはできないので、ある班は航空被服を作る工場や、航空機工場へ挺身隊員として動員され、残る何班かで移動演劇隊として稽古に入った。
9月、満州(現在の中国の東北部)を皮切りに昭和20年1月を期して7班・8班が日本各地へ移動演劇隊としての演劇公演を行うこととなった。
移動演劇隊は作者、音楽指揮者が隊長となり、生徒を16名から20名、オーケストラ5名、他に衣装係、小道具係を引率して、北は北海道、樺太、南は九州へと、軍隊、そして軍需工場への公演に散っていった。糸井しだれは北海道の洞爺で公演している。

大阪市に対する最初の「ボーイングB─29スーパーフォートレス爆撃機」による焼夷弾空襲は、昭和20年3月13日の午後11時57分から翌日の午前3時25分までで、第73、313、314爆撃航空団所属の295機によって実施された。この時、一機のB─29が大阪市東区南久宝寺町2丁目の市電道に墜落炎上した。11名の搭乗員のうち9名の米兵が死亡。黒焦げになった遺骸があちこちに散乱した。この大空襲により大阪に住む人々の間にも空襲は身近なものとなってきた。

糸井しだれの家族は大阪市内から「十三」に転居していた。昭和20年、日々空襲が激しくなってきた頃、糸井しだれは宝塚を退団した。津市玉置町、ここは藤堂家士族の武家屋敷町として津市内で最も高級な住宅地であった。
津市医師会の会館もあり、何人もの医師や弁護士が住んでいた。糸井しだれは玉置町1895番地に住んでいる友人の村木美代子を頼って疎開することになる。村木美代子には玉枝という8歳の子供がいた。この家族は後で述べる玉置町の弁護士・山田寛氏の話では「東京から津市へ疎開してきた家族で、今井医師の門長屋に住んでいた」ことになる。
しばらくして、村木の知人である陸軍の騎兵少尉との結婚話がもちあがった。結婚相手が外地に赴くまでの間に、結婚式をという話になり、糸井しだれは宝塚時代にはしなかった家事見習いや料理をせっせと、村木家で教わっていた。
昭和20年7月24日、太平洋のテニアン島西飛行場から、アメリカ陸軍航空隊第313爆撃航空団所属の「ボーイングB─29スーパーフォートレス爆撃機」38機が、津市高茶屋にある津海軍工廠を第1目視爆撃目標地、そして津市市街地を第1レーダーによる爆撃目標地として飛び立った。
それぞれのB─29爆撃機は、AN─M64、500ポンド、約250キログラム、通常爆弾を搭載した(作戦任務第288号)。
一方、グアム島北飛行場から、第314爆撃航空団所属のB─29爆撃機75機が名古屋市にある三菱工業名古屋機器製作所を第1目視爆撃目標地、そして津市の市街地を第1レーダーによる爆撃地として爆撃せよという命令を受けた。
搭載爆弾はAN─M56─A2、4000ポンド、約2トン、軽筒爆弾(長さ約3m、直径約86㎝、B─29は1機当あたりこの爆弾を4発搭載した)とAN─M─64、500ポンド、約250㎏、通常爆弾を搭載した(作戦任務289号)。 アメリカ軍の天気予報では、名古屋地方ではこの日は高度5000mに高層雲、9600mに巻雲があり、30%の曇天ということであった。しかし、いざ日本本土近くまで来ると、2600mから9000mにかけて厚い雲の層があり「全曇」であった。これでは目視照準の爆撃ができない。それで予め決めておいたように、それぞれの「目視照準爆撃地」を「レーダー爆撃地」を爆撃するように変更された。つまり出撃したB─29爆撃機全機が津市の市街地を爆撃することとなった。この時点で高茶屋の海軍工廠に対する爆撃は外された。(次号に続く)