少し前になりますが、八月二日は全国紙の第一面を次の学習指導要領の話題が飾っていました。各紙に特徴があり、日程を詳しく載せているところや「英語」の教科化と早期導入を中心にしているところなどがありました。私の周囲では、特に「英語」が話題になることが多くて、いささか面喰いましたが、始まった教育改革のなかでは、新聞でも話題性があり、誰にも具体的なこととしてわかりやすいからだと思います。
子どもたちにときどき尋ねてみることがあります。「今年は二〇一六年だが、これは何を数えている数字なのだろうか。」たいていの答えは「人間が生まれてからの年数」です。「それでは、中国四千年の歴史、というのはどうなるの」子どもたちは困った顔をします。「ヒントを出せ」と言われることも多いので、「毎年十二月二十五日になるとその人の誕生日を祝っている」と私は言います。子どもたちはすぐに「サンタクロース」と口々に答え、その中に、「ああ、キリスト、という人」と言う声が聞こえます。
みなさんはご承知だと思いますが、西暦というのは、キリストが生まれてから数えています。紀元前を「B.C.」ということから、それを知っている人もいると思います。「B.C.」は「Before Christ」の略語ですね。「Christ」は「キリスト」、イエス・キリストのことです。ただし、私は、実在したキリストは、紀元0年よりも前に生まれていたようだというような研究書を読んだことがあります。たまたま私の通っていた幼稚園がキリスト教系のところで、毎日「アーメン」と何かにつけ唱えさせられ、紙芝居やお話しも聖書のなかからのものでした。ただし、私の家は、浄土真宗の西本願寺派です。
初詣、バレンタインデー、七夕様、お盆、ハロウィンパーティー、そしてクリスマスと、これらはみんな背景となる宗教が異なりますが、日本人は、宗教的には無節操な感覚が常識です。おまけに、大きな木や岩や滝や山も、しめ縄や社をつけるなどして、崇め奉ります。八百万の神様を受け入れるおおらかな民族です。さらには、論語もブームになるなど、儒教も道教も日常的に取り込んでしまえます。そろそろ、私の言いたいことがおわかりの方もいらっしゃるのではないでしょうか。新しい指導要領で、日本は英語教育をさらに充実させ実効力のあるものにしようとしています。英語が「国際共通語」だと、ほとんど誰もが疑わないからです。確かに、英語でコミュニケーションができれば、ほとんどの国や地域の人々と交流することができます。そのことから、英語圏の国々の人々と仲良くできれば国際社会で通用する、と考えてしまうのだとしたら、これからの国際社会で生きる子どもたちの未来像としては、あまりにも短絡過ぎるのではないか、と私は危惧してしまいます。その理由は、言語文化の背景には、宗教の影響が確実にあるからです。
お隣の中国は、私の知人もそうですが、とても英語を流暢に使いこなす方がたくさんいます。また同じように英語の得意な方の多い韓国は、一般的にキリスト教の国とされています。中国は儒教の国です。インドは現在ヒンズー教が中心となっていますが英語が得意です。キリスト教や儒教、ヒンズー教などの宗教を大切にし、さらに母国語もきちんと使いこなしている。私は、年々、日本の子どもたちの日本語の能力が落ちているのが、とても心配している一人です。これも受験競争下の国語学習のせいだとしたら、とても由々しき問題です。英語も大切だけれども、まずは母国語、日本語でしょう、と言いたいのは、私だけでなく、かねてよりたくさんの学者や文化人の方々が指摘していることでもあります。日本語によるコミュニケーション能力が、子どもの周囲の大人たちでも落ちている現状を、このままにしていてよいのでしょうか。
このような脆弱な言語文化の現状にあって、ここで「世界共通語」のように英語教育に力を入れるのは、近い将来に、何か不穏なものを感じてしまいます。日本人が英語でキリスト教の行事に興じているのを見て、不快感を持つ宗教観の人々は、世界では少なくない数に上ると思います。英語教育に力を入れるなら、なおさらに、日本の伝統的文化を大切にする心情を養わなければならないのではないでしょうか。日本の神社仏閣や能狂言、茶道華道、和食文化など、それらをよく知って英語で紹介する。英語は、表現手段の道具として活用すべきであって、英語を知り使う、というだけでは、その虚心が誤解を招くかもしれません。ちなみに「ドレミ」はイタリア語で、一般の音楽用語は他の言語も含めてキリスト教圏の「共通語」ですが、音楽には「ドレミ」文化だけでは説明できないものが世界にはたくさんあります。私は、余計なものが派生しない唯一の「世界共通語」は数学の図式や概念だけではないか考えています。                 (伊東教育研究所)