2016年8月

▼日本画を楽しむ 大門教室作品展=31~9・4、NHK津ぎゃらり~
▼─水彩スケッチ─豊田陽男 風景画展=~28、三重画廊
▼写真集団おちこぼれ写真展=~28、津リージョンプラザ
▼のりみち展 四角い日曜日展=25~30、VOLVOX
▼劇団カラーズ第20回記念公演「アルト=ハイデルベルク=27、アストホール
▼橋南スポーツクラブ夏の絵手紙展=~31、津藤枝郵便局
▼墨画展(墨を楽しむ)=31、百五銀行本店
▼松阪ウインドアンサンブル定期演奏会=28、農業屋コミュニティ文化センター
▼サニーサイドゴスペルクラブ三重7周年コンサート=27、県総文中ホール

除幕式の様子(加藤会長は左4人目、斎藤さんは左3人目)

除幕式の様子(加藤会長は左4人目、斎藤さんは左3人目)

14日、津市鳥居町の「比佐豆知神社」で津藩校有造館の第3代督学を務めた漢学者・斎藤拙堂=1797~1865=が晩年を過ごした茶磨山荘を偲ぶ山荘遺址碑の除幕式があった。
拙堂は優れた儒学者・文人・詩人でもあると同時に激動の時代に日本が飲み込まれないよう積極的に世界情勢を学び、自らの見識を深めた経世家としてその名を全国に知られていた。晩年は、同神社のある愛宕山の隣の茶臼山に茶磨山荘を構え、頼山陽・吉田松陰・河合継之助・大塩平八郎・三島中洲ら名だたる文化人らと交流を持った。
山荘は明治24年に参宮鉄道(現JR)、昭和6年に大軌電鉄(現近鉄)の線路が並行して敷設されたことに伴い姿を消し、敷地約1600坪の内1000坪が失われた。そこで昭和4年には線路脇に当時の文教関係者や政財界の有力者による「拙堂会」の有志=発起人代表は当時の須山栄津市長=によって山荘遺址碑が建立された。しかし、残る600坪も戦後に住宅団地造成で失われたため、碑へのアクセスが非常に困難となった。そこで長年、手入れされないままだった碑を見た三重大学の内田淳正前学長が昨年3月、退官を前に学内へと移設した。一方、これによって山荘の跡地を示す証が無くなってしまったので「斎藤拙堂顕彰会」=加藤龍宗会長=が拙堂の生誕220年を記念し、同神社の理解を得て新たな碑を建立した。
除幕式には同会の会員を始め、前葉泰幸津市長や石水博物館の上田豪理事長など約60名が出席。社殿で神事が執り行われた後、碑の前で関係者らが集まり完成を喜んだ。その後、社殿で加藤会長が「拙堂の偉業を後世に伝えていかなければならない」と挨拶した。
来賓の名古屋大学名誉教授の今鷹眞さんは講話で、「旧制中学校の漢文の教科書に拙堂の月瀬紀勝の文が載っていたので全国の人がその名を知っていた」と拙堂の漢文の素晴らしさを称え、未来へと受け継ぐ意義を訴えた。最後に、拙堂の玄孫である斉藤正和さんが「在りし日の山荘を私は東京スカイツリーのようなものだと思っている。それは倫理・技術・情報・芸術などの極の上に文章というステーションがあり、津から全国へ発信していた。それをキャッチして吉田松陰たちが集まってきた。漢文はすぐに役立つものではないが長い目で見れば必ず役立つ」と語った。

この暑い時期の台所は嫌いだ。ガス台の前に立つと、ご飯が炊ける熱、炒め物、揚げ物の熱が顔の前に立ち上る。
だからもう、揚げ物をしないと決めた。鯵ならフライではなくムニエルに。鶏なら唐揚げではなく、ソテーに。野菜の天ぷらなら……やはり天ぷらが食べたい。
天ぷらは外で食べよう。自分で天ぷらを揚げると、暑いし、多く作りすぎるし、油のにおいで食べる前に満腹になるし。ほかの人が作ってくれる天ぷらが食べたい。
そんな時に立ち寄った道の駅津かわげで、おいしい天ぷらを見つけた。千円の天丼を注文したら、どんぶりの中の天ぷらがびっくりするほど多かった。エビとキスとマイタケと何種類もの野菜と。それが熱々だし、サクサクしているし、うれしいことこの上ない。
天ぷらに隠れて天丼のご飯が出てこないので、天ぷらを取り置く皿が付いてくる。少し天ぷらを取り出してから、たれをかけて天丼をいただく。
このとき、好きな天ぷらから食べるのが、肝要。天ぷらのおいしさは最初が最大。食材が変わると天ぷらの味も違うが、さすがに単調に感じてくるから、間にみそ汁や漬物で舌を休める。
名のある天ぷら屋でなくとも、天ぷらはおいしい。ソバ屋でもうどん屋でも揚げたてを供してくれる店がうれしい。暑い夏に揚げ物をし続ける料理人さんに感謝である。        (舞)

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