「サミット、無事に終わってよかったな」と、三重県民なら、この言葉を何度言ったことか。空、陸、海、どの道をとっても万全の体制を整えるため何年も前から準備がされ、特に警察官は九州から北海道まで二万八千人もの動員があったようだ。
世界のあちこちでテロが起こり、つい最近日本人もまきこまれている。何事もなく「伊勢志摩サミット三重で開催」と歴史の一行に載った。関わられたすべての人々に感謝するのみである。
一躍有名になった伊勢志摩観光ホテルへサミット料理再現の一泊旅行に夫と友人夫婦とで出かけた。夫の体調を考え、予約とキャンセルを繰り返し夏の終わりにやっと実現した。このホテルへは一三年前、昼食に訪れたことがある。丁度陶芸家の辻田岳秀氏の個展が開かれており、小さなひな人形を購入し毎年三月に飾っている。
辻田氏は宇治山田出身で各種の陶芸展に入選されている。時々、ホテルではこのような催しが行われている。今回の料理は、伊勢海老、鮑、松阪牛を中心に目にも舌にも見事なもの。四十代から夫と海外旅行を共通の趣味としてヨーロッパ、アメリカ、アジア等の多種多様のレストランも訪れているが今回が最高と意見が一致した。
各首脳は世界の平和、経済、エネルギー、保健等について議論をされたが食事の時は三重の食材が話題の中心であったろう。今後は伊勢志摩地方もサッミットブランドを地域活性化につなげられるかが課題である。終わってからも官民一体となって地域を盛り上げてほしいものだ。
ホテルの庭を散歩していたら「久米三汀」句碑、「佐々木信綱」歌碑、「山口誓子」句碑があった。伊勢に関係の深い谷川士清の歌碑が並んでいても不思議ではない。
伊勢と士清の関係を少し述べてみよう。谷川士清は娘八十子を伊勢神宮重代の祢宜職である蓬莱尚賢に嫁がせた。尚賢は谷川塾に学び、林崎文庫の再興をしたり、文人学者と交流もあり声明が響いていた。
自慢の婿殿であったに違いない。士清が京都で一緒に垂加神道を学んだ竹内式部は公家衆に講義をし、なかなかの人気で、幕府は朝廷内に式部の説が広まるのを恐れ式部を京都より追放した。士清を頼ってきた式部を津より人混みの多い神宮のある伊勢の方が安全と考え、士清は蓬莱尚賢に匿うよう頼んでいる。士清は娘や式部のいる伊勢へ何度も出かけ、この地を詠んだ歌も何首かある。
なぜ士清の歌碑がないのか考えた時、津と伊勢が遠いことも一因だが、尚賢の悲運が大である。まず八十子との長男駒之助を幼くして亡くし、次男尚陽も健康面などで恵まれず、後継者のため病弱な八十子の勧めで娶った側室の三幸は平三郎を産み、半月で死去、平三郎も六才で亡くなった。
尚陽の妻富子、後添い幸子、そして尚陽の子供新之助も数年のうちに亡くなる。尚賢自身、四九才の若さで突然死去。蓬莱家は尚喜、尚賢、尚陽三代が享保九年から文化四年までの八四年で血統は絶えた。士清を伝える人が伊勢で続いて活躍されておれば前述の歌碑も実現していたものをと残念に思う。
増補語林『和訓栞』で調べてみたら、「いせ」と「しま」は非常に丁寧に説明してあった。(次の二つは原文のまま)
〇いせしま・伊勢島とて伊勢と志摩とひとつによむなりといヘリ志摩ハもと伊勢の國を割しよしふるく見えたり志摩の國ぶりも古今集にいせうたとて入たり。
○ふたみのうら…伊勢但馬播磨ともにあり紀伊ノ國和歌浦のむかふなる二見浦も立石の景なりよく伊勢に似たるより呼成へし伊勢の立石埼ハ江村に行道の境なり
『和訓栞』は『日本書紀通証』を著わした際に非常に多くの文献から調べた言葉約二万語を最初の二文字を五十音順に並べて整理した通巻九三巻・八二冊の偉大なる辞書である。後述の二つの言葉は実際に歩いて調べたのではと思う。
伊勢のあちこちを歩いていて、ひょっこり士清さんがいるような気がした。
(谷川士清の会顧問)