走り方がわからなくなり、文武両道であった希望の神戸高校へ進学しながら高一で陸上競技を断念し目標を見失っていた私に、高二の春「陸上部主将のKさんから聞いた…」と声を掛ける人がいた。
後の菅瀬先輩だった。「俺について来いではなく、一緒に神戸に重量挙げ部をつくってくれないか?」という話だった。
この人との出会いが人生を大きく変えた。私は正直重量挙げは、まだピンと来ていなかったが、新しい部をゼロから創る所に惹かれた。器具は菅瀬先輩が、私は部員を10名程集めた。
志半ばで先輩は卒業し、大学へ進学したが、我々は熱き情熱を引き継ぎ一年足らずで先輩の夢でもあった県で総合優勝を果たし、部昇格や、その年5階級制覇するなど、最強軍団をつくった。
その後、私は体育教師、選手として大成することを夢見て体育大学へ進学するも、伸び悩んでいた。
中学・高校と活躍するが、大学へ入ると消えていく選手は陸上などにもいるが、私もそのような一人になりかけていた。
強い大学の部活では毎年、急性アルコール中毒や暴力による内蔵破裂などで、未来ある若者が潰されていた時代。私自身も一滴も飲めなかった酒をいきなり一升酒一気に飲まされたり、ビンタは無論のこと連帯責任で土間で万歳したまま正座を4時間近くつき合ったこともあった。
食事も米とインスタントラーメンしかなく、入学して半年で私の体重は15㎏落ちていた。ある日、大学の講義が午後からだったので午前中寝込んでしまった私は、三日後に心配した後輩がドアを叩くまで眠りこけていたこともあった。午前中から剣道や水泳、午後は陸上など、放課後は延々とトレーニングが続き、限界に達すると「後10回行け!」の声を信じて練習では音をあげなかった自分の心身は疲れ切っていた。
ただ、「先輩は神様、一回生は地獄」の時代。最近、駅伝で有名な青山学院のように、監督以下、和気あいあいとは違い、毎日、刃を突き付けられたような時代であり、期待していた科学的トレーニングも今のようにスマホで簡単に動画を撮り、フォーム解析やコアトレーニング等ができる時代ではなかった。
しかし、一歩部活を離れると優しい先輩達であったこと、大学の後輩であるメジャーリーガーの上原投手を観ていると、長く一線で継続出来る力は、時にはスクワット100セット(170㎏1000回)等、あの時代についたかなと感じている。
同じ誕生日でも元東京オリンピック金メダリストの三宅選手のように若くして世界の頂点まで駆け上り引退した選手もいれば、私のように還暦を過ぎても天下布武は成らずとも真田丸のようにまだ先頭で走り続けている選手もいる。色々である。
中一で、走りにブレと迷いが生じていたように、その頃の私は、技術的な収穫や名コーチと出会えず迷いながら走っていた。それでも主将として、どうにか大阪選手権で三連覇したり、卒業後も三重県選手権や国体予選等で優勝していた。
大学を卒業して7~8年が過ぎていた最後の年、当時の協会のトップに直訴し、「私はどうして国体に行けないのですか?」と聞くと「お前は実力者だからいつでも行ける。若い者に道を譲れ」という回答だった。
その一言で、ここに生涯を賭ける居場所はないと感じ、重量挙げを離れて弟子の藤井氏(後に全日本実業団優勝)達と共にパワーリフティングへ全力を傾け、以降20年以上、無敵のコンビでアベック優勝を重ねることになった。
その後、10年以上のブランクがありながら、先日のN─1大会で県記録を上回る記録で優勝することが出来た。
野球の工藤投手がリリースポイント一つでボールの高低を調整していたように、また陸上選手が体幹を立てた場合と前傾、かかと重心とつま先重心では全く違う走りになるように、ハイクリーンやベンチも、シャフト一本分だけのコースの違いや握りで成否が変わることも分かるようになってきた。余談ですが寝たきりの繰り返しの母親の回復にも今は筋トレの知識が役立っています。
体育教師を辞め、シングルパパになった時は、娘達の為に強いパパでいようと心に誓い、今は日本一強い「ジイジ」でいられたらと思っている。35年間、私の戦いにつき合い、今も支えてくれている会員さん達にも感謝。
パワーだけでなく、バトミントンや陸上など何百名もチャンピオンを育て、一般の方のシェイプアップ等のお手伝いもして来た私が、本当に一番指導を受けたかったのは、若かりし頃の自分自身だったのかも知れない。
(津トレーニングセンター代表)