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沿線ええとこめぐり2のチラシ

沿線ええとこめぐり2のチラシ

第1回で訪ねる医王山東光寺

第1回で訪ねる医王山東光寺

津観光ガイドネットが4月から11月まで全6回の『復活・奇跡の名松線 沿線ええとこめぐり2』を一志・白山・美杉で催す。昨年全線復旧した同線の観光路線としての価値を高める一助にしようと、津市の関係各支所と連携して企画したウォークイベントで、今回が第2弾。ガイド3団体が沿線の名所旧跡や、ゴルフ場などの事業所を案内するほか、昼食や土産も用意。沿線の歴史や自然・観光・食の魅力を広くPRする。

 

松阪駅~伊勢奥津駅(津市美杉町)に至るJR名松線は平成21年の台風18号で被害を受け、家城駅(津市白山町)~伊勢奥津駅間で運休。
一時は同区間の廃線が危ぶまれたが、沿線住民の熱心な存続運動もあり、JR東海が約4億6千万円・県が約4億7千100万円・市が約7億5千万円を負担して復旧工事を行い、昨年3月26日、約6年半ぶりに全線復旧した。
しかし、沿線の過疎化などの影響で従来から赤字路線であり、同区間の一日平均利用者数は復旧前は約90人で、昨年11月には約180人と増えているものの、活性化し、将来にわたり存続させるためには他地域からの誘客が欠かせない。
そこで津市内14のボランティアガイド団体で構成する「津観光ガイドネット」=西田久光会長=では、一昨年10月から全10回の「JR名松線復旧記念ウォーク」を実施し人気を博した。
そして今回、第2弾として、沿線のガイド団体(一志町歴史語り部の会・白山道しるべの会・伊勢本街道美杉会)や市職員などで構成するプロジェクトチームで『復活・奇跡の名松線 沿線ええとこめぐり2』を企画。
ガイド3団体が各地域の名所旧跡や、ゴルフ場などの事業所も案内し地元経済への波及効果も目指す。初回の東光寺の本尊御開帳など、地域の貴重な行事に参加できる機会もある。また第1弾で昼食付きのコースが好評だったため全6回とも、昼食と地元の菓子などの土産付きとすると共に、1区間以上名松線に乗車。
津観光ガイドネットでは「今回の沿線巡りは東光寺での久々の正式開帳など各回毎のテーマを設け、名松線と組み合わせました。沿線にはまだまだあまり知られていない面白いものがあるので、発掘し、名松線と絡めて外に向かってアピールしていかなければいけないと思う」と話す。
《春ヴァージョン 第1回~3回の内容》
【第1回】4月12日=白山総合支所に10時15分~30分集合・受付。松阪方面からの列車が関ノ宮駅10時11分着~同支所10時30分発~河口頓宮~白山公民館、昼食~医王山東光寺で薬師如来32年ぶり本開帳(13時~説明・参拝、14時~餅まき)~廃高田寺(国重文十一面観音立像拝観)~同支所~関ノ宮駅から松阪行き列車15時59分発。約4㎞。
【第2回】4月17日=伊勢奥津駅前に8時50分~9時10分集合・受付。松阪方面からの列車が同駅8時51分着~受付~伊勢本街道(石名原・払戸・三多気)~三多気の桜(11時半解散、自由散策・昼食、13時出発)~伊勢本街道~ミニ道の駅「かわせみ庵」~同駅から松阪方面行き列車15時8分発。約7㎞。
【第3回】6月12日=一志総合支所に9時20分~40分集合・受付(伊勢大井駅でも受付)。列車で一志駅9時56分発~伊勢大井駅10時4分着(料金190円)~亀ケ広~笠着き地蔵、11時20分発(バス)~一志ゴルフ倶楽部(蛇山伝説の地を電動カートで訪ねる、昼食、同伝説にまつわる弓曳き神事のDVD鑑賞)、13時半発(バス)~誕生寺~大井神社(蛇山伝説ゆかりの地)、14時45分発(バス)~同支所(15時頃)。約4㎞。
※近鉄で行く場合は川合高岡駅で下車し、名松線一志駅に乗り換え(徒歩6分)。車で行く場合は、白山総合支所(最寄り駅=関ノ宮駅)、一志総合支所(同=一志駅)に名松線利用者用駐車場があり、パーク&ライド利用可。
※第4回(10月8日)、第5回(11月10日)、第6回(11月22日)の秋ヴァージョンの詳細は、後日、本紙で告知する。
▼小雨決行、警報発令時は中止
▼弁当・土産・保険代実費=1500円。参加費=無料。名松線の運賃は各自で支払う。
▼参加特典=オリジナル缶バッジ進呈。
▼申込は、各実施日の20日前までに届くよう往復葉書で、〒514─0009、津市羽所町700、 アスト津2階 津観光ガイドネット「名松線」係へ。
往信用葉書の裏面に参加者の住所・氏名・☎・参加希望する月日を記入、1枚の葉書で3人まで申込可。
申込後、主催者から返信葉書で指定の口座が知らされ、弁当・土産代1500円を振り込み、エントリー完了となる。キャンセルの場合、返金不可。
▼定員各回50名。申込者数が定員を超えた場合は抽選。
▼問い合わせは津市観光協会内の津観光ガイドネット☎059・246・9020。

前葉市長(右5人目)と各団体の代表者たち

前葉市長(右5人目)と各団体の代表者たち

2月24日、『津城復元の会』=西田久光会長=が同月11日に行った「津城復元資金造成ライブ2017~一打伝心Ⅲ」に協賛出演した各団体の代表者らが、津市役所の前葉泰幸市長を訪問。同ライブの収益金と会場募金の計42万5209円を津市のふるさと納税制度「ふるさと津かがやき寄附」の使途項目「津城跡の整備」宛てで寄附した。
贈呈式には、西田会長のほか、ライブの出演団体から津・高虎太鼓の中田正己会長、津商工会議所青年部元気玉太鼓の山本学さん、伊勢津組の田中嘉久さん、草深晶藤篠笛の会の山路富貴子さん、勢州津高虎隊の齋藤好信さんらが出席。寄附金42万25209円の内訳は収益金38万4250円と会場募金4万959円。
西田会長は「今回で約1万2500人から総額1900万円以上の寄附を頂いている。4月6日に発表される日本城郭協会の続日本100名城に津城が選ばれれば、もっと訪れる人が増えるので期待したい」と語った。
その後、西田会長より浄財を手渡された前葉市長は全国で返礼品合戦が過熱するふるさと納税制度の現状にふれつつ、寄附する側の意向をまちづくりに反映していく本来の趣旨に即した同会の活動を評価。「文化の香り高い、歴史を大切にするまちづくりとマッチする取組み。多くの市民に賛同して頂いていることを重く感じる」と感謝した。その上で「津城はいつの日にか復元されるべきもので、それはきちんとしたものでなくてはならない」とし、改めて寄附金を津城復元の資金として大切に保管していくことを約束。市としても来年度は、津城跡に植えられている木の根が内側から石垣を圧迫しているため対策に向けた調査を進めることを説明した。

その日昭和20年6月26日、アメリカ陸軍航空隊、第21爆撃兵団、第314爆撃航空団所属のボーイングB29スーパーフォートレス爆撃機35機が太平洋上のグアム島北飛行場を次々に発進した。
岐阜県の川崎航空機各務ヶ原(かかみがはら)工場及び三重県津市内の軍需工場を爆撃せよという命令を受けていた。そのうち4機のB29が津市内の軍需工場群を第1目標として爆撃することになっていた。
それぞれのB29はAN─M64、500ポンド(約250キログラム)、の通常爆弾を搭載していた。(作戦任務第231号)。

B29群は離陸後、1500~3000メートルの高度をとった。途中、B29はそれぞれ2機の3グループに分かれ、硫黄島から発進した第7戦闘機コマンドに所属するジョン・W・ミッチェル大佐が率いる第15戦闘機大隊の「ノースアメリカンP51D─20─NAムスタング」型戦闘機群と合流した。
「ムスタング」とは「野生馬」の意。硫黄島を発進した時間は午前5時54分。41機が発進した。P51戦闘機群はB29に先導されて日本本土に向かった。空爆するB29の護衛がP─51の主任務である。硫黄島から日本本土までおよそ1200キロメートルである。爆撃機を戦闘機が護衛する「戦爆連合」である。

兵庫県の伊丹飛行場を基地にする陸軍飛行第56戦隊、戦隊長古川治良少佐、に「第1波、舞鶴地区、第2波大阪地区共ニ波切志摩半島付近ヨリ伊賀上野名張付近ヲ経テ続々侵入其ノ数第1次350、第2次100機ヲ下ラズ、其ノ第1次P─51ノ援護下ニ北上セリ。全力出撃スベシ」という命令がくだった。
第1中隊(隊長は古川治良少佐)は陸軍三式戦闘機「飛燕」を駆って野崎中尉、浜田少尉、石川軍曹の4機で編隊を組み、先ず和歌山上空に出て、紀伊山脈を越え尾鷲付近に進出し、雲際高度4500メートル付近を索敵中に単機または小編隊にて北上するB29爆撃機群を発見した。この日第1中隊は全戦闘機の左右の翼下にB29を撃墜するための「タ弾」を搭載していた。
永末昇陸軍中尉(飛行隊長兼第二中隊長)が戦隊の先頭をきって出撃した。だが上昇途中の高度4000メートル付近から僚機が遅れだし、700~800メートルの遅れが出た。間もなく無線情報から「B29は単機で潮ノ岬上空まで飛来し、そこで2機ないし4機の編隊を組み、先ず少数機の編隊が中部地区の各爆目標地に分散攻撃を加えて日本側の迎撃戦闘機隊を分散させた後、主力のB29の大編隊をもって重要攻撃目標に集中攻撃を加えるという戦法をとっている」と判断し、「潮ノ岬上空に進出し終結中のB29群を攻撃するのが最良の方法」と考え、機首を潮ノ岬の方に向けた。そして9時頃、高度6500メートルで潮ノ岬上空に到達したが、B29の姿は見当たらなかった。そこで遅れている僚機を待つことにしてゆるい右旋回に入った。

津市白山町大三地区。最寄の駅は近鉄大阪線「大三駅」この日は晴れ。蒸し暑い日だった。あちこちの水田は稲が青々としていた。ほどなく上空を2機の日本軍戦闘機が旋回しだした。地区の人々はいつもとは違う旋回を見て、「きょうは、空中戦でもあるのでは」と機影を追っていた。頭上をB29の編隊が次々と名張方面に飛行していく。2機の戦闘機は陸軍飛行第56戦隊に所属する陸軍3式戦闘機「飛燕2型改」、銀色の機体の胴体に赤い日の丸がはっきりと見えた。1機は中川裕少尉、分隊長、〔陸軍特別操縦見習仕官第1期、同志社大学卒、広島県大竹市玖波町出身〕が操縦。もう1機は僚機だった。まるで獲物を狙うかのように「飛燕」独特の乾いた液冷エンジンの爆音を響かせながら旋回していた。

白山町上空を飛行するB29群は第1空爆目標地の岐阜県の川崎航空機各務ヶ原工場に向かっていた。中川少尉操縦の「飛燕」は攻撃時を見計らうやいなや、一気にB29の編隊に勇猛果敢に突っ込んでいった。照準器の中心に攻撃目標とするB29をとらえた。
操縦桿握把上部の射撃用ボタンを押した。曳光弾がB29に向かっていく。B29までの距離およそ500メートル。「飛燕」は最高時速610キロ、機首上に装備されている二丁の「ホ5 20ミリ機関砲」左右の主翼に装備されている「ホ10 12・7ミリ」機銃を連射しながらB29めがけて一気に突進した。白山町上空からはB29と「飛燕」の爆音と双方が発する機銃の発射音が鳴り響いていた。「アッ」という瞬間に体当たりをした。この時、午前9時14分。

ここに編隊を率いるパーカー機長の目撃談がある。「視認できる距離のところに日本軍戦闘機が飛行している。この戦闘機が頭上攻撃を開始した。我がB29に向かって段々と接近してくる。この戦闘機を撃墜しようと編隊のB29が機銃を一斉に掃射し続けた。絶え間なく。我がB29はM─2ブローニング12・7ミリ機銃の発射音と反動で振動していた。それでもその日本軍戦闘機は我が機をめがけてさらに接近してくる。その日本軍戦闘機は夥しい機銃弾の弾幕にもかかわらず、何故、この日本軍戦闘機は撃墜されないのか。墜ちない。我がB29の機首をめがけてまっしぐらに機銃弾をまるで押し分けるように突進してくる。
これで我がB29は一巻の終わりだ。人生が終わるということはこういうことなのだ。私は私の搭乗員の命を奪う衝突に覚悟を決めた。しかし奇跡中の奇跡、その日本軍戦闘機は我がB29に衝突せず、ものすごい速度で通過していった。
しかし安堵も束の間、中央射撃コントロールの射撃手が叫んだ、『なんてことだ。コーダス機をやったぞ』。その日本軍戦闘機は我がB29の右翼上をかすめ、ベンジャミン・コーダス機長のB29の左翼外側エンジンに体当たりをした。
我が機の右側機関銃手は、体当たり直後に墜落していくコーダス機の写真を抜かりなく撮った」。この写真は翼をもがれ、機体の中央部分から火煙を吐くコーダス機、背景に伊勢湾、阿漕浦海岸、志登茂川、安濃川、岩田川、相川、風早池が写っている。
コーダス機はこの体当たりで左主翼の外側エンジン部分から外側部分からもぎとられ、機体中央部から火炎を吐き空中分解しながら、機体の大部分は近畿日本鉄道大阪線の「東青山駅」近くの惣谷付近に墜落した。落下する機体の部品が電車の高架線をずたずたにあちこちで切断した。このため電車は不通となった。
撃墜されたベンジャミン・コーダス機は第314爆撃航空団、第19爆撃航空軍、第28爆撃飛行隊の所属機で、機体番号は44─69873である。11名の搭乗員のうち、機長のコーダス大尉ら10名が死亡した。墜落現場に8遺体あった。
更に10月16日になって、山仕事をしていた村の婦人がもう1遺体をみつけた。更に1946年1月20日に、倭村の農夫が1遺体を見つけ警察に通報した。
(次号に続く)

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