その日昭和20年6月26日、アメリカ陸軍航空隊、第21爆撃兵団、第314爆撃航空団所属のボーイングB29スーパーフォートレス爆撃機35機が太平洋上のグアム島北飛行場を次々に発進した。
岐阜県の川崎航空機各務ヶ原(かかみがはら)工場及び三重県津市内の軍需工場を爆撃せよという命令を受けていた。そのうち4機のB29が津市内の軍需工場群を第1目標として爆撃することになっていた。
それぞれのB29はAN─M64、500ポンド(約250キログラム)、の通常爆弾を搭載していた。(作戦任務第231号)。

B29群は離陸後、1500~3000メートルの高度をとった。途中、B29はそれぞれ2機の3グループに分かれ、硫黄島から発進した第7戦闘機コマンドに所属するジョン・W・ミッチェル大佐が率いる第15戦闘機大隊の「ノースアメリカンP51D─20─NAムスタング」型戦闘機群と合流した。
「ムスタング」とは「野生馬」の意。硫黄島を発進した時間は午前5時54分。41機が発進した。P51戦闘機群はB29に先導されて日本本土に向かった。空爆するB29の護衛がP─51の主任務である。硫黄島から日本本土までおよそ1200キロメートルである。爆撃機を戦闘機が護衛する「戦爆連合」である。

兵庫県の伊丹飛行場を基地にする陸軍飛行第56戦隊、戦隊長古川治良少佐、に「第1波、舞鶴地区、第2波大阪地区共ニ波切志摩半島付近ヨリ伊賀上野名張付近ヲ経テ続々侵入其ノ数第1次350、第2次100機ヲ下ラズ、其ノ第1次P─51ノ援護下ニ北上セリ。全力出撃スベシ」という命令がくだった。
第1中隊(隊長は古川治良少佐)は陸軍三式戦闘機「飛燕」を駆って野崎中尉、浜田少尉、石川軍曹の4機で編隊を組み、先ず和歌山上空に出て、紀伊山脈を越え尾鷲付近に進出し、雲際高度4500メートル付近を索敵中に単機または小編隊にて北上するB29爆撃機群を発見した。この日第1中隊は全戦闘機の左右の翼下にB29を撃墜するための「タ弾」を搭載していた。
永末昇陸軍中尉(飛行隊長兼第二中隊長)が戦隊の先頭をきって出撃した。だが上昇途中の高度4000メートル付近から僚機が遅れだし、700~800メートルの遅れが出た。間もなく無線情報から「B29は単機で潮ノ岬上空まで飛来し、そこで2機ないし4機の編隊を組み、先ず少数機の編隊が中部地区の各爆目標地に分散攻撃を加えて日本側の迎撃戦闘機隊を分散させた後、主力のB29の大編隊をもって重要攻撃目標に集中攻撃を加えるという戦法をとっている」と判断し、「潮ノ岬上空に進出し終結中のB29群を攻撃するのが最良の方法」と考え、機首を潮ノ岬の方に向けた。そして9時頃、高度6500メートルで潮ノ岬上空に到達したが、B29の姿は見当たらなかった。そこで遅れている僚機を待つことにしてゆるい右旋回に入った。

津市白山町大三地区。最寄の駅は近鉄大阪線「大三駅」この日は晴れ。蒸し暑い日だった。あちこちの水田は稲が青々としていた。ほどなく上空を2機の日本軍戦闘機が旋回しだした。地区の人々はいつもとは違う旋回を見て、「きょうは、空中戦でもあるのでは」と機影を追っていた。頭上をB29の編隊が次々と名張方面に飛行していく。2機の戦闘機は陸軍飛行第56戦隊に所属する陸軍3式戦闘機「飛燕2型改」、銀色の機体の胴体に赤い日の丸がはっきりと見えた。1機は中川裕少尉、分隊長、〔陸軍特別操縦見習仕官第1期、同志社大学卒、広島県大竹市玖波町出身〕が操縦。もう1機は僚機だった。まるで獲物を狙うかのように「飛燕」独特の乾いた液冷エンジンの爆音を響かせながら旋回していた。

白山町上空を飛行するB29群は第1空爆目標地の岐阜県の川崎航空機各務ヶ原工場に向かっていた。中川少尉操縦の「飛燕」は攻撃時を見計らうやいなや、一気にB29の編隊に勇猛果敢に突っ込んでいった。照準器の中心に攻撃目標とするB29をとらえた。
操縦桿握把上部の射撃用ボタンを押した。曳光弾がB29に向かっていく。B29までの距離およそ500メートル。「飛燕」は最高時速610キロ、機首上に装備されている二丁の「ホ5 20ミリ機関砲」左右の主翼に装備されている「ホ10 12・7ミリ」機銃を連射しながらB29めがけて一気に突進した。白山町上空からはB29と「飛燕」の爆音と双方が発する機銃の発射音が鳴り響いていた。「アッ」という瞬間に体当たりをした。この時、午前9時14分。

ここに編隊を率いるパーカー機長の目撃談がある。「視認できる距離のところに日本軍戦闘機が飛行している。この戦闘機が頭上攻撃を開始した。我がB29に向かって段々と接近してくる。この戦闘機を撃墜しようと編隊のB29が機銃を一斉に掃射し続けた。絶え間なく。我がB29はM─2ブローニング12・7ミリ機銃の発射音と反動で振動していた。それでもその日本軍戦闘機は我が機をめがけてさらに接近してくる。その日本軍戦闘機は夥しい機銃弾の弾幕にもかかわらず、何故、この日本軍戦闘機は撃墜されないのか。墜ちない。我がB29の機首をめがけてまっしぐらに機銃弾をまるで押し分けるように突進してくる。
これで我がB29は一巻の終わりだ。人生が終わるということはこういうことなのだ。私は私の搭乗員の命を奪う衝突に覚悟を決めた。しかし奇跡中の奇跡、その日本軍戦闘機は我がB29に衝突せず、ものすごい速度で通過していった。
しかし安堵も束の間、中央射撃コントロールの射撃手が叫んだ、『なんてことだ。コーダス機をやったぞ』。その日本軍戦闘機は我がB29の右翼上をかすめ、ベンジャミン・コーダス機長のB29の左翼外側エンジンに体当たりをした。
我が機の右側機関銃手は、体当たり直後に墜落していくコーダス機の写真を抜かりなく撮った」。この写真は翼をもがれ、機体の中央部分から火煙を吐くコーダス機、背景に伊勢湾、阿漕浦海岸、志登茂川、安濃川、岩田川、相川、風早池が写っている。
コーダス機はこの体当たりで左主翼の外側エンジン部分から外側部分からもぎとられ、機体中央部から火炎を吐き空中分解しながら、機体の大部分は近畿日本鉄道大阪線の「東青山駅」近くの惣谷付近に墜落した。落下する機体の部品が電車の高架線をずたずたにあちこちで切断した。このため電車は不通となった。
撃墜されたベンジャミン・コーダス機は第314爆撃航空団、第19爆撃航空軍、第28爆撃飛行隊の所属機で、機体番号は44─69873である。11名の搭乗員のうち、機長のコーダス大尉ら10名が死亡した。墜落現場に8遺体あった。
更に10月16日になって、山仕事をしていた村の婦人がもう1遺体をみつけた。更に1946年1月20日に、倭村の農夫が1遺体を見つけ警察に通報した。
(次号に続く)