ニットと、パッチワークキルトなどが並ぶ姉妹展

ニットと、パッチワークキルトなどが並ぶ姉妹展

津市安東町の古民家コミュニティー「ゆずり葉」で30日まで、鈴鹿市の長谷川津岐子さん(71)と津市高茶屋の伊藤晴美さん(68)姉妹が、「ニット&キルト姉妹展」を開催中。
長谷川さんによる美しい色合いのセーター・チュニックなどのニット約25点と、伊藤さんが十二支や1月~12月の月ごとの風景をテーマに制作したキルトなど30数点が展示されている。
2人とも子供の頃から編み物が好きで、教室に通ったり、友人と集まって制作活動を行うなどして技術を磨いてきた。今展には、2人がここ5年ほどコツコツ制作してきた力作を出品。長谷川さんは「作品は、編み物の雑誌を見て、好みの色味のものを作ります」、伊藤さんは「良い図案や、良い布に出会ったときに、これで作品を作りたいと思います。姉妹2人とも元気なうちに作品を見てもらえたらと思い展示を行いました」と話した。
問い合わせは、ゆずり葉☎津227・3523へ。
開館10時~17時。月・金休館。

クヌギの苗木を植える参加者たち

クヌギの苗木を植える参加者たち

5日、津市一志町波瀬の矢頭中宮公園周辺で、波瀬まちづくり協議会=山本豊実会長=主催の第1回植樹祭が行われた。
地域を流れる波瀬川の水源地で矢頭山にある波瀬財産区の森林を豊かにするために初めて行ったもの。
植樹祭の前に津市波瀬ふれあいセンターに集まった参加者に向って山本会長は「良い環境を次の世代に繋げていきたい。記念すべき1回目なので良いスタートを切り、多くの未来につなげられたら」と挨拶。来賓として駆け付けた前葉泰幸市長も「美杉で始まった取組みが一志まで広がって嬉しい」と続いた。
その後、参加者は自動車で矢頭宮公園まで移動。そこからは小班に分かれ、斜面などにクヌギの苗木計150本を植え、獣害対策用のネットも施した。
植樹終了後、一志町語り部の会の吉村武司さんが矢頭山と係わりの深い波氐神社の神宮寺跡などについて講話を行った。

(前号からの続く)
ここに当日中川少尉の遺体収容にあたった石川清詩氏著の私家版『終戦30年の回想』の中に遺体収容の模様が詳細に記述されているので、関係箇所をそのまま引用する。
「時は6月26日午前9時過ぎでした。まだ津市街が爆撃される前だったと思います。B29が6機と艦上機の攻撃を受ける事になり、その日、私は週番仕官であり、聯隊の乗馬委員でありましたので、空襲警報と同時に、歩兵砲と機関銃隊の厩舎へ馬の退避命令を出すとともに、聯隊長の馬と私の馬を、川端曹長に命じて練兵場の西南の森へ退避させ、私も現場へ徒歩で参りました。
中隊は、『イサハヤ』へ行っておりますから、安心して艦上機の去るのを待っておりましたところ、西北の空で、ピカリと光を感じました。暫くすると、各当番兵が『B29に日本機が体当たりしました』と言う。私は聯隊上空の艦上機のみに心を取られており、何度来ても、聯隊を爆撃しない。いやがらせばかりだが、敵が上陸した場合、米兵を収容する目的で残すのかな?と、こんな事を考えていたから、B29に体当たりしたのに気が付かなかったのです。
ところが、退避中、久居の西北の空から落下傘が降りてくる。この様な場合は、乗馬中隊は、救護に行く様に命ぜられていた。高度2千~3千であった為、なかなか落下して参りません。当番兵連中は、あせりが来て『早く捕獲に行きましょう』と催促しますが、私は『馬の様な大きな頭体を、五つも六つも並べて走ったら、艦上機の好目標だ。暫く小休みになるまで待て。それより馬の腹帯を締めておけ。』と命じている内に、機が去っていく様に思われたから、練兵場の西二メートル位の道を出て北へ行き『本道へ出る道へ出たら、襲歩だぞ!ボヤボヤしているとイチコロだ』と言って聞かせて飛び出しました。
落下傘を目標に、どんどん走った。その内に町民の人々が、防空壕から顔を出し『真光寺の庭へ落ちたから、早く行って下さい』と言うが、私も他の者も、召集になってから日が浅く、名古屋聯隊で育ち、京都で予後備の復習をやったので、同県であっても久居の地形は不明でありますから、寺の屋根の見える方へ飛びました。
ようやく真光寺の門へ到達しました。既に、消防の人が二、三人門を閉じていたので、開かせて中へ入ると、本堂前の高さ十メートル位の松の木に落下傘がひっかかり、地上から二メートル位のところに一本の綱だけで、ぶらさがっており、既に死んでおられ、我々五、六人で一本の綱を、力を合わせて引っ張っても、なかなか切れないので、本堂の下に、菰があったので、それを敷かせ、私が軍刀で綱を切ったら、ぼたもちの様になって落ちた。私は、頭部の裏側の毛髪が茶色で、腰は折れていて、うつぶせになっていた為、てっきり米兵だと思って、一服吸わんとしていると、兵隊が『これは、日本の将校です。』と言うから『なぜか』と問い正したところ『偕行社のマフラーと靴下です。』と言う。
上衣を少々脱がして見ると飛行服の裏側に、中川少尉というネームがあり、肩に深さ二〇センチ位裂け目があり、いずれにしても立派な戦死だ。丁重にしてくれと言って、落下傘の上へ、体を延ばし包んでいるところへ、聯隊から救護班が到着したので、我々は、ねんごろに取扱う様申し渡して引き上げました」
中川裕少尉は津市上空に果てた。享年24、中川裕少尉は戦死後2階級特進して最終階級は大尉となった。(著者注釈、本文中に「艦上機」とあるが、これは「P51ムスタング戦闘機」をさす。当日、航空母艦から三重県に飛来した「艦上機」は無い)

中川少尉機がB29に体当たりする瞬間を目の当たりにした同戦隊の浜田芳雄少尉は茫然自失となっていた。その時、P51ムスタング戦闘機(第45戦闘機中隊所属のダグラス・リース少尉操縦)に奇襲され、エンジンに機銃弾を被弾した。
このため浜田少尉操縦の「飛燕」は火炎を発した。操縦席の風防を開け、機体を上下さかさまにして、機外にパラシュートで降下した。降下地点は青山トンネル付近である。
浜田少尉は火傷を負ったもの、翌日27日に伊丹の戦隊基地に飄然と帰還した。浜田少尉が戦死したもの諦めていた隊員達は少尉の無事を喜びあった。

古川戦隊長は名張上空で編隊を組んで飛行するB29群の上空で「飛燕」の両翼から「タ弾」を投下した。「タ弾」が爆発するのは目視したが、B29に損害を与えたか否かは確認できなかった。
一方、永末大尉が10分あまり、僚機を待つために潮ノ岬の上空6500メートルを旋回中、突然、大尉機の両側を赤い機銃弾がスーッと上方にぬけて行った。この地域は曇天のためはっきりと見えた。大尉は旋回した後、下方に目をやった。
すると4500メートル付近の雲の上をB29が1機旋回しながら大尉機をめがけて集中砲火を浴びせていた。B29は爆撃機であり、戦闘機ではない。いくらB29の火力がすさまじいものであれ、P51の援護のないB29は正しく好餌(いとも簡単に落とせる敵機)であった。
まず「飛燕」の両翼下の「タ弾」をタイミングを計って、そのB29に対して投下した。
炸裂するタ弾を確かめたものの、位置が少しはずれてしまった。B29は悠然と飛行し続けた。大尉は「タ弾」投下で身軽になった愛機を降下させ、B29の下方に出た。
それまでの数十回の実戦の経験から見て、「基本に忠実であることが最も効果がある」と熟知していた大尉は、眼前のB29の撃墜に確信を持った。
射程距離である500メートル位まで近づき両翼の2門の12・7ミリ機関銃及び機首の2門の20ミリ機関砲の発射ボタンを押した。弾丸は赤い弾道を描きながらB29の胴体付近に命中した。
やがてB29は黒煙を引きながら降下し、旋回しながら下層の雲の中に消えた。そののち、明野飛行場に燃料と弾薬を補給するために着陸した。
補給後、奈良上空を北上する4機編隊のB29を発見し、直ちに右端のB29に前方攻撃をし、さらなる攻撃をかけたとき、B29から集中砲火を受け大尉機は被弾したが、一方、B29のうち1機からは黒煙が噴出していた。
この日のB29の攻撃目標は岐阜の川崎航空機工場と判断して、岐阜にむかった。B29の編隊は奈良上空から琵琶湖に向けて北上し、そこから右に変針し、岐阜方面に飛行していた。
もう一度、同じ目標機に前方攻撃をしようとしたが、計器板から白煙が噴出し始めた。空中火災である。うまく操縦し、木曽川の堤防の手前の田んぼに不時着した。この時、頭部に負傷した。名古屋陸軍病院に入院しているときに8月15日となった。(次号に続く)

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