(前号からの続き)
中川機がB29に体当たり後、機体が四散して落下した二本木地区の人々は操縦席にこびりついている遺体の肉片を竹と木でお箸を作りそれで取り出し、「へさやん(通称)」が作った木製の箱に納め埋葬し、墓標を建てた。

陸軍少尉、中川裕は大正11年12月9日、広島県大竹市玖波町に生をうけた。
子供の頃から極めて慈悲深く親孝行であった。広島の2中を卒業し京都市の同志社大学を卒業した。
戦争が激しさを増すなか、航空戦力の重要性を感じ、陸軍特別操縦見習仕官第一期生として、太刀洗陸軍飛行学校に昭和18年10月に入校した。
そして、待望の戦闘機隊員に選ばれた。一旦は満州〔現在の中国の東北地方〕の日城子に派遣されたが、昭和19年7月31日、兵庫県の伊丹飛行場の陸軍第56戦隊に配属された。
古川戦隊長の「覚え」に「技量優秀」と特記されている。昭和20年3月19日より戦列に加わり、何度もB29の攻撃に出撃した。戦隊において留守部隊長兼新人操縦者の「三式戦闘機 飛燕」転換教育の主任教官の永末昇陸軍大尉の教育を受けた。そしてB28撃墜の決死必殺の体当たり戦法(56戦隊では刺し違え戦法と呼んでいた)の気風を自ら溢れさせていた。
ここに昭和18年7月14日に内閣印刷局印刷発行の『週報』の24ページに「陸軍省」が通告した「陸軍特別操縦見習士官の手引」があるのでそのまま引用する。 おそらく中川少尉もこれをよんで応募したものとおもわれる。時代の背景がよりよくお分かりになるだろう。
「『決戦だ』、『空だ、』一億の血は滾る。若き学徒諸君が『じつとしてはおられぬ』と叫びつつ学窓より直接大空への挺身を熱望されている状況は、まことに頼もしくも喜びに堪えないところである。
陸軍では、つとに学徒を航空将校たらしめる途を考え、これまでも飛行機操縦の心得ある者に対して、1年間教育して航空少尉とする操縦候補生の制度があり、また幹部候補生の中でも特に操縦を希望する者は、随時これを操縦将校として来たのであるが、最近頻りに各方面より、更に手っとり早い大空への挺身路の開拓について要望され、とくに学徒のこの要望は極めて熱烈になって来た。
そこで、この熱望に応え、且つ空中決戦態勢強化のため、今回特別操縦見習士官の制度を制定したのである。
即ち専門学校程度以上の学校を卒業した者に対して特にその素養を遺憾なく発揮させ、且つ飛行機及び最近とみに重要性を昂めた滑空機(グライダー)操縦者の資質向上のため、あらたに本制度が制定されたのである。
本制度は飛行機または滑空機の操縦を志願する者に対し、身体検査と口頭試問を行った上、直ちに陸軍飛行学校に入校させ、入校と同時に見習士官となし、1年6カ月の後少尉となるのであるが、見習仕官となる以前から、飛行機または、滑空機の操縦の出来た者は、1年間で少尉になれるのである。また見習士官の期間は、陸軍大臣は必要によって変更することがあるので、全般の情勢と見習士官の技量等によっては、操縦の素養のない者でも1年ぐらいで少尉となることもある。
特別操縦見習士官で、教育中にどうしても操縦に不向きの者が出たときは、人物や一般的成績によって、だいたいこれを甲種幹部候補生とする。この際はやはり見習士官であって、1年6カ月で少尉となれることには変わりはない。本制度の第1回は本年10月に採用される予定で、その志願資格は、学歴は大学学部、同予科、高等学校高等科、専門学校、高等師範学校、師範学校等を卒業した者、または本年9月30日までに卒業見込の者である。
高等学校や大学予科を卒業して大学学部に在学している者は無論資格があるし、現に徴兵検査を受けた者、或いは軍隊に入っている兵や幹部候補生になっている者でも志願できる。
願書は7月31日までに学校所在地の所管師団長に差し出すことになっており、志願票は陸軍航空本部や学校所在地の師団司令部或いは配属将校のいる学校でいつでも交付する。若しこれが手に入らない場合は願書を自分で書いてもよい。また願書類には市区町村長の奥書証印を受けるのであるが、本年は特に締め切り期日の関係上、これを省略することにした。
採用検査は第1次、第2次の身体検査と口頭試問とであって、まず志願者在学中の学校等で第1次身体検査が行われ、これに合格した者が第2次身体検査と口頭試問を受け得るのであって、細かいことは本人に通達することになっている。
今や航空の決戦は酣である。一日も早く、一刻も早く、航空戦力の飛躍的拡充強化を図り、速やかに敵を撃滅せねばならない。軍は人、物のすべてを挙げて航空優先の徹底を期しているが、特に学徒に対する軍の期待は極めて大きい。高等教育受けた素養高き若人が、空中戦士として、大東亜戦争完勝のために遺憾なくその素養を発揮せんことを望んでやまない。」 〔陸軍省〕

当時、日本陸軍軍戦闘機によるB29攻撃の方法は、前上方、前下方、後上方からの機銃掃射をしながら肉薄し、離脱する方法及び「タ弾」をB29の編隊上空から撒布する攻撃だった。「体当たり戦法」というといとも簡単にできるように思えるが、「飛燕」もB29も高速で飛行しており、B29には12門のブローニングM2 12・7ミリ機関銃が一斉に集中砲火を「飛燕」に浴びせてくる。
その破壊力は凄まじく、当たれば文字どおり蜂の巣にされることを意味していた。生還することが望まれていた攻撃法とはいえ、捨て身となって肉薄攻撃をし、万一の場合はB29に体当たりするのも辞さないという闘志をもってする攻撃であった。

B29の攻撃方法は上述のとおりだが、「飛燕」の火力は「2門の20ミリ マウザー砲及び2門の12・7ミリ機銃」で「飛燕」の飛行性能から考えると、B29を昼間に攻撃するには前上方攻撃が最も有効であった。 それには早めに攻撃要地上空に待機することが肉薄攻撃の決め手であった。B29の敵機に対する防御火力は大変強力な破壊力を持っていた。したがって、うすい角度からの前上方攻撃が一番有効であった。56戦隊の主任教官の永末昇大尉は「B29の攻撃の基本はB29の編隊に向かって右端機に前上方攻撃をおこなう。機関砲の照準点はB29の操縦者付近、射撃開始距離は約450メートル」と言っていた。
この攻撃のためには最低限B29と同高度、理想的には、さらにB29より100メートル上空に位置し、待機地点もB29の飛行航路の近くであることが条件であった。そしてこれは一度限りの攻撃のチャンスしかなかった。(次号に続く)