三重大学が平成19年度から医師を派遣している「三重県立一志病院」=津市白山町南家城=は、診療科の枠を越えた総合診療(家庭医療)を実施している。その一環で昨年院内に設置された「三重県プライマリ・ケアセンター」では、高齢化が進む地方で増える在宅医療や介護などの需要に多職種連携のプライマリ・ケアで応えるため、人材育成を行う。その第一歩として現在、エキスパートナースの教育プログラムを構築中。

 

toppu「プライマリ・ケア」は、地域住民の健康を身近な立場でサポートする医療・介護・福祉・保健のことで、住民のニーズに応じ幅広い分野の診療を行う総合診療医などによって行われる。
三重県立一志病院=院長・四方哲三重大学臨床教授(47)=では、総合診療の臨床・教育・研究の先進的な取り組みで医療過疎地域である白山・美杉町の医療に貢献すると共に、研修医を県内外や海外にも輩出してきた。来月3日に診療が始まる美杉町奥津の「津市家庭医療クリニック」にも医師を派遣し、グループ診療で住民の健康を支える。
一方、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者となる2025年以降、国民の在宅医療・介護などの需要が更に増えることが見込まれている。そのため厚労省は、高齢者が住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、医療・介護・予防などを一体的に提供する「地域包括ケアシステム」の構築を推進している。
そこで昨年10月院内に設置され、同大が県からの委託で運営する「三重県プライマリ・ケアセンター」=センター長・竹村洋典三重大学大学院医学系研究科家庭医療学教授(55)=では、この課題に対処するため、多職種連携によるプライマリ・ケアを担う人材を育成。
竹村センター長は「三重県など医師不足の地方では、地域包括ケアシステムは、多職種連携し、①相手を知り②相手が何ができるかを知り③皆の関係性の中で自分はどこにいるのかを知り④何をすれば良いのかを考え⑤コミュニケーションをとり⑥患者中心で何ができるかを考えなければ、動かない。そして、患者自身とその家族も多職種の一つです」と語る。
現在、プライマリ・ケアエキスパートナース育成のため研修会を開くと共に、教育プログラム・評価表を構築中。
来月頃から同院の看護師がプログラムを受け、1年かけて他の医療過疎地域の医療機関でも使用してもらえる内容の完成を目指す。人手不足の施設で働く看護師が参加することを想定して、基本的に自分の職場内で受けられるなど、自由度が高い内容にする予定。
プログラムの目的は、地方で働いているためスキルアップ教育を受ける機会が少ないが、地道なプライマリ・ケアで住民に貢献している看護師のスキル・モチベーション向上と、プライドを持ってもらうこと。
また将来的には、魅力ある教育プログラムにより、都市で働く若手看護師を地方に呼び込みたいという。
四方院長は、地方の病院・医師数は今後、さらに減るとして「プライマリ・ケアエキスパートナースが、三重県や日本の隅々の、訪問看護を中心とした在宅医療などで救世主になると思う」と期待を込め話した。
大病院など先端医療の現場の看護師は専門性が求められる傾向があり、専門ごとの資格認定制度も確立している。一方、同センターの評価表は、外来の幅広い診療科の中堅看護師の応用スキルを詳細に亘り評価するもので、完成すればおそらく全国初だという。全国の地域医療に貢献し得る取り組みで、発展が待たれる。

4月9日㈰10時~17時、津駅東口ロータリー・栄町公園・羽所町通り周辺で「津駅前ストリート倶楽部」=青山春樹会長=主催の『津駅前ストリートまつり』が開かれる。後援=津市、津市観光協会、津商議所、㈱まちづくり津夢時風。
津市内で最も勢いのあるエリアとして、近年注目を集めている津駅前の商店主らによる同倶楽部。県庁所在地の顔ともいえる津駅前を活性化させようと、毎月の清掃活動をはじめ、様々な取り組みを行っている。この祭りはその中でも最も大きいイベントで今年で6回目を迎える。
東口ロータリー内に設置したメインステージでは、津商工会議所青年部元気玉太鼓や津・高虎太鼓による和太鼓演奏、唐人踊りといった郷土芸能、2017年度津クイーン発表、ゆるキャラステージ、よさこい、ダンス、津ぎょうざ早食い大会など、多彩な内容が楽しめる。 歩行者天国の羽所通り周辺のストリート会場には飲食・物産販売ブースがずらりと並び、自由に描けるお絵かきバスや大道芸人パショーマン、地震体験車、自衛隊車両やエコカー展示。また、昨年も好評だったリアル謎解きアトラクション「4つのナゾの箱」も実施。尚、混雑が予想されるので、できる限り公共交通機関の利用を呼び掛けている。

(前号からの続き)
6月26日から少し遡る3月17日午前2時29分から午前4時52分にかけて、第73・313・314爆撃航空団所属の331機のB29が神戸市に夜間爆撃をした。B29群は単機または数機で2000~4000メートル上空で大阪湾を西北進し、神戸市市街地を爆撃した。この時出撃した56戦隊の緒方淳一大尉はB29〔機体番号42─24849、第73爆撃航空団、第500爆撃航空群所属〕に体当たりを敢行し、壮烈な戦死を遂げた。
体当たりされたB29の機体は空中分解し機体は広範囲にわたって落下した。機長ロバート・ジョンソン・フッツジェラルド以下9名が死亡。2名がパラシュートで降下した。
神戸市生田区再度山頂付近にB29は墜落した。墜落したB29の残骸の中から、緒方機の脚、冷却器、プロペラ、緒方大尉の飛行靴の片方等が発見された。また4月18日、B29が福岡の太刀洗飛行場を爆撃した際、B29との交戦で中川少尉機は機銃弾を被弾して、中川少尉は佐賀県の目達原飛行場に不時着陸せざるを得なかった。
緒方大尉の体当たり、そして、自らの被弾により、中川少尉はB29との戦いにますます闘志がたぎった。「なにが何でも、憎きB29を撃墜せねばならぬ。何が何でも」。
コーダス機は体当たりされた二本木上空で右主翼のエンジン部分から切り裂かれ火煙を発しながら落下していった。機体中央部からも火煙を吐きながら空中分解しながらドンドンと高度下げ、惣谷付近に墜落した。途中B29の機体の破片、部品が、例えばゴム製の大きなタンクなどが民家や田畑に降り注いだ。
B29は「バリバリ」という異常音を発して墜落した。現場には搭載していた酸素ボンベや爆弾等が散乱し、硫黄の臭いが鼻をついた。警防団員が現場にかけつけ、米兵の遺体を墜落現場に乱雑に埋葬した。
戦後、米兵が遺体を回収するために現地を訪れたとき、掘り返した遺体は整然と埋葬されていたという。おそらく敗戦後「米軍が来る」ということで後難を恐れて、急遽、埋葬しなおしたのだろう。このような例は日本のあちこちにある。
この日の体当たりを目撃した人の証言があるので下記に記す。
「私は当時14歳、白山町佐田で田植えの準備をしていた。田んぼのあぜに腰をおろし、休憩をしていた。するとB29の編隊が大阪方面に飛来して来た。そこへ笠取山の上空付近北方の方向から日本軍の単座戦闘機2機が飛来した。まるで全速力をだしているかのごとくすごい爆音を出して先頭を行く日本軍戦闘機がB29に真正面から刺違えるように体当たりした。
その時すごい衝撃音がした。高度は日本軍機もB29も同じくらいだった。場所は白山町川口、大三、国道165号線上空ではなかったかと思う。日本軍機は火を吐きながら、キリモミしながら急速度で白山町二本木付近に落下した。もう1機の日本軍機は伊勢湾方向へと飛び去った。
B29の搭乗員のパラシュートが開き、『四季の里』付近の山中に降下した。住民は鳶口、竹槍等を持ってアメリカ兵の降下地点に駆けつけた。このアメリカ兵を捕獲した警防団員らがB29の残骸の中からワイヤーのようなものをさがしだし、それで両手を縛った。
それから林道を歩いて白山町倭村の村役場まで連れていき、そこで看護婦が手当てをした。アメリカ兵の頭は白い包帯がぐるぐる巻かれていた。それから、不通となっていた電車にたまたま乗りあわせていた大阪の巡査が先頭になって榊原の陸軍病院まで歩いてつれていった。
この時、大勢な人だかりができ、人々は『息子を返せ』、『鬼』と罵声を浴びせた。この巡査がアメリカ兵に石を投げつけたり、殴り掛かろうとする住民を制止した。
アメリカ人を見たのは、この時が初めてだった。すらりと背が高かった。髪の色は茶色のちぢれ毛のようだった。長袖の軍服を着ていた。ヘルメットは被っていなかった。大阪の巡査〔白い制服にサーベルを腰からぶらさげていた〕は終始紳士的だった。
赤松の木にB29の搭乗員1名の死体が挟まれ、ぶら下がっていた。警防団員が2名の死体をB29の胴体から出し、松林の地面に置いた。また他に2体の死体は頭の皮が剥がれ、無残な姿だった。そばを流れる小さな川の水が、脳みそで真っ赤になっており、凄惨を極めた。
後日、久居の陸軍33聯隊から1個小隊くらいの兵が死体を現場に埋葬した。死体の収容中、アメリカ軍の戦闘機が上空を旋回していたが、機銃掃射はなかった。死亡した搭乗員の中には、夜光の腕時計をしていた者もいた。それを鎌でつつく住民もいた。B29の燃料タンク、ジュラルミンの破片が佐田、上ノ村に落下した。B29の主要部分は近鉄東青山駅真裏の『四季の里』付近の三箇所に落下した。B29の破片の落下により近鉄の大阪本線の架線が三箇所切断され電車の運行は不通になった。
私は線路伝いにB29の墜落現場を見に行った。現場には多くの人々が見に来ていた。主翼のエンジンは部分は水田に落ちた。まだ火煙を出している胴体、尾部は『四季の里』。もう一つのエンジンは『四季の里』の谷川付近に落ちていた。B29が搭載していた不発爆弾が2個線路上にころがっていた。
後日、友人と墜落現場にこわごわ何度も行った。日本の兵隊さんらがB29の機関銃を分解して大八車に載せて運んでいった。私はB29の胴体に入り、積まれていた『釣竿』や『機上食(キャンディーのようなもの)』を食べた。美味しかった。ぐにゃぐにゃに曲がったパイプやモーターを4~5個と取り外して家に持ち帰った。工業高校の生徒にそれを与えてそれで遊んだりした。
終戦後、『B29の部品を持っている者は殺される』といううわさが流れた。それで全部川へ捨てた。またガソリンタンクに巻かれていた厚いゴムで『ぞうり』を作ったがとても固く、きりで穴をあけた。帯になった機銃弾も持ち帰った。9月頃、十数名の米兵がジープに乗って墜落現場に来て、米兵の遺体を掘り出し持ち帰っていった。
駅でない場所で電車を止めさせ、下車したりしていた。パラシュートで降下した米兵を殴った者やB29の部品を持ち去った者は殺されるといううわさが流れていた。8月15日の終戦日が過ぎてもB29の残骸はそのまま放置されていた。不発の爆弾も長い間そのままころがっていた」〔1993年12月14日午前9時30分に白山町のS氏より聞き書き〕。
ここにもう一つ、B29が体当たりされた日の大切な体験談があるので、次に記す。「当時、私は倭村国民学校の2年生でした〔現在の白山町倭地区にありました〕。この日も学校に行っていました。警戒警報が解除されて運動場の防空壕から這い出して、歩いて家に帰りました。家では姉と2人。家の側の道路にはゴム製の大きなタンクが転がっていました。それに庭のいたるところに飛行機の破片らしき物が沢山突き刺さっているのです。近鉄の電線は垂れ下がっています。家族〔祖父母、両親〕は田植えの真っ最中で家にいませんでした。本当に心細く泣きそうでした。家族も私達姉妹は死んだのではないかと思っていたそうです。田んぼにも飛行機の翼が落ちてきたからです。父は私達の顔を見るなり「生きとったんか」と言いました。  (次号に続く)

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