2017年3月

2015年、宮城県東松島市で開いたイベントの参加者達

2015年、宮城県東松島市で開いたイベントの参加者達

鯖戸伸弘さん

鯖戸伸弘さん

明後日11日で東日本大震災から6年。津市香良洲町の海産問屋「丸政商店」の代表・鯖戸伸弘さん(48)は、同町などに住む20代~70代の30名でつくる『(人と絆)チャリティーライブ実行委員会』の委員長として、被災地や津市内で復興支援活動を継続している。
「同じ日本人、他人事じゃない」との思いで行っている活動の始まりは、2011年7月10日の同町でのチャリティーライブ。以降毎年、岩手県陸前高田市・宮城県東松島市などの被災地と、津市で各1回ずつ、本業を生かした「マグロの解体ショー」などの復興支援イベントを行っている。
14年には、津市が職員を派遣している宮城県亘理郡山元町で、復興支援事業として行われた「山元町ふれあい産業祭」に、前葉市長らと共に参加。伊勢マグロの解体ショーなどで盛り上げた。
さらに、これらイベントは来場者が被災者だけではないこともあり、毎年1回、少人数で被災地を訪ね、ピンポイントの支援も行っている。
被災地に行くたび、自分の目で見て耳で聞いた情報を受け、次はこういう支援をしなければいけないという思いを持つ。また、現地で出会う様々な人と話した事が次の支援活動へと繋がる場合も多い。活動を通じ多くの人々と絆を育み、岩手県でイベントを開くと宮城県から来てくれる人もいるという。
その様にして積み重ねてきた復興支援活動の中で、鯖戸さんにとって特に思い出深いのが、2015年に東松島市で開いたイベントでの出来事。会場の仮設住宅を普段巡回していた宮城県警の警察官によると、住民達はそれまでは塞ぎこみ全く話をしてくれなかった。しかし、賑やかなマグロ解体ショーがきっかけで和やかな雰囲気が生まれ、住民も警官も皆が輪になって歌い出し、うちとける事ができた。
鯖戸さんは「そのとき、『来て良かった』と心の底から思いました。先日、津市で開いたイベントでも話したことですが、これから生まれてくる子や孫らに、2011年3月11日に大震災があったことや、被害について伝えることも復興支援になります。
子供や夫、嫁さんを亡くした人もいて、色んな話を聞いたりして、辛いよなと思う。6年経つけど、まだ6年。今から本当の復興支援が始まるんじゃないかなと思います。実行委員会の頭を張っているので、これからも皆を勢いづけていく。どういう小さい形でも、自分が生きていく中で最後の最後まで、俺はこの復興支援をやりきっていくよ」と力強く話している。

◆なんちゃって陶芸家になろう「お皿に絵を描こう」 3月11日㈯・12日㈰①10時②11時③13時④14時⑤15時、 MAPみえこどもの城にて。対象は幼児以上、各回10名(当日受付)。参加費500円。陶芸用の絵の具を使い描く。焼成後、後日引き渡し。☎0598・23・7735。
◆歴史講演会・家康と服部半蔵正成~近世を開いた蔭の系譜 4月2日㈰13時半~久居総合福祉会館で。入場無料。主催=家康を語る会☎0595・45・3232川崎さん。

(前号からの続き)
遺体はB29が墜落する際その衝撃でさけた松の木の上枝に挟まれてほとんど風化していた遺体を偶然に見つけたものである。
津市のCIC(アメリカ陸軍防諜隊)が遺体を回収した。B29に搭乗していて、体当たり後、機外脱出に成功しパラシュート降下できたのは尾部機関銃手のレスター・J・シェルスタース3等軍曹だけである。
彼は倭村の惣谷付近に降下した。現場付近に駐屯していた大阪の特別守備隊第1大隊や倭村の警防団員らが彼の行方を捜索していたところ、不通になった電車にたまたま乗り合わせていた大阪府警の馬場巡査〔19歳〕が彼を捕まえ、電車の線路上を歩いて倭村役場(白山町中ノ村 138─4)まで連行した。
集まった群衆は彼に激しく罵声を浴びせたり、殴り掛かろうとする者もいたが警官らに制止された。彼は頭部に怪我をしていた。巡回看護婦の木村ゆき子さんが呼ばれ、シェルスタース3等軍曹に応急手当をした。「ありがとう」とシェルスタース3等軍曹は言った。
きっと木村さんは看護婦としての使命感で慈愛にみちた心で手当てをしてあげたに違いない。頭に包帯が巻かれた。『婦人従軍歌』の4番に「味方の兵の上のみか 言も通わぬあだ迄も いとねんごろに看護する こころの色は赤十字」とある(注釈、「言も通わぬあだ迄も」…「ことばも通じない敵でさえも」。「いとねんごろに」…「とてもていねいに」の意)。この歌そのままに米兵の傷の手当てをされたに違いない。
その後、歩いて榊原陸軍病院に本格的な治療を受けるために向かった。途中の道にはその米兵を見ようとすごい人だかりができていた。佐田あたりでは「うちの息子はアメリカ兵に殺されたんや」と今にも米兵に殴りかかりそうになった。 そこにいた佐田の伊藤幸雄さん、明治35年生まれ、がその人を制止し自分の家の中庭に招き入れ、つるべ井戸のつるべから直接米兵に水をのませてあげた。
蒸し暑い夏の冷たい井戸水に。今は捕虜となった若いアメリカ兵はきっとその一掬の水に、「ありがとうございます。感謝します」と丁寧に御礼を言ったにちがいない。
多くのB29搭乗員は日本本土を爆撃に出撃する事前の打ち合わせで上官から「日本本土にパラシュート降下したら怒る住民により殺されるかもしれない」と教えられていた。それ故にこの一掬の水はそれこそ「地獄に仏」だっただろう。
榊原陸軍では病院長の中西軍医中尉の治療を受けた。その後、久居警察署の警官がトラックで津憲兵隊に送り、翌日、津駅から名古屋市中区三の丸の東海軍司令部に送致された。同年7月14日、東海軍司令部の第2兵舎裏で斬首刑に処せられた。シェルスタース3等軍曹は1917年8月22日生まれ。享年28。ミシガン州、ミルフード出身。

中川少尉に体当たりにより撃墜されたB29(機体番号44─69873)の搭乗員は次のとおり…
機長…ベンジャミン・G・コーダス中尉、認識番号0─792611。パイロット…フィリップ・D・デフレーツ少尉、0─831136。航法士…ハロルド・L・ブレーク・ジュニア フライト オフイサー、T─128429。
爆撃手…エドウィン・I・クシュナー フライト オフイサー、T─5571。レーダーオペレーター…アルバイン・C・バルトラス少尉、0─2066701。フライトエンジニア…ジェームズ・B・マッコード2等軍曹、16078854。無線士…ラマー・H・ヴァルモント3等軍曹、13145717。中央射撃コントロール…フランク・J・ベヌスカ2等軍曹、36902948。
右側機関銃手…ダッドリィー・T・ハーキンス3等軍曹、31448535。
左側機関銃手…ロバート・ギャフニィー軍曹、31431913。尾部機関銃手…レスター・J・シェルスタース3等軍曹、36877137。
以上11名。シェルスタース3等軍曹の一番近い親族は「母」となっている。

「中川少尉は津市を空爆する予定のB29に体当たりをした」という文献もあるが、これは間違いである。米軍のMissing  Air Crew Report(行方不明航空機搭乗員報告書)にはコーダス機の爆撃目標地は「各務ヶ原」と明記されていることから容易に判る。

コーダス大尉機の編隊を率いていたヴァン・パーカー少佐のコーダス大尉についての回想がある。
「ベンジャミン・コーダス大尉に関して、私は以前彼が話すのを聞いたことがある言葉で強く私の胸にこたえた思い出がある。彼はこう言っていた『太平洋のここでの空戦はそんなに激しいものではない。君達はヨーロッパの空をあの爆撃機を飛行させて我々と共にドイツ空軍と戦うべきだった。あれは本当に激しい戦いだった』」。コーダス大尉はドイツ空爆にB17爆撃機を操縦し、ドイツとの戦いが終結後、B29の爆撃隊に参加していた。

中川少尉の操縦する戦闘機は二本木の延寿寺を北に見て左右2キロメートルの円内にバラバラになって落下した(現在の白山台付近)。赤い鮮やかな日の丸のある銀色のもぎ取られた左右の主翼がヒラヒラと落下してきた。
日の丸が描かれた胴体。原型をとどめない操縦席のあちこちに肉片が付いていた。鮮血に染まっていた。計器メーター類も散乱し、エンジンや車輪、尾輪もあった。プロペラは延寿寺のすぐ傍に落下した。操縦席の西側少し離れたところにB29のエンジンの付いた右主翼が煙を吐いて落下していた。中川少尉は体当たりした瞬間に機外に放り出されたが、機体に取り付けてあったえいさく環により自動的にパラシュートは開いた。中川少尉のパラシュートは東の伊勢湾方向へと風に流されていた。       (次号に続く)

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