(前号からの続き)
そのさわぎがおさまるや、パラシュートで脱出した兵士が頭に包帯の姿で家の側の道を歩いて連れてこられたのです。その兵士を見ようとすごい行列でした。中には、竹槍を振りかざして「うちの息子はアメリカ兵に殺されたんや」と今にも兵士にとびかかりそうになりました。父がそれを制止して家の井戸のつるべから直接水を飲ませてやったのです。私はなぜかほっとしました。(2015年6月27日付、道子さんから著者への書簡)
第56戦隊の浜田少尉が操縦する「飛燕」を撃墜したのは前述のとおりダグラス・リース中尉だ。中尉はこのとき「P51」を操縦していた。私はアメリカ人の航空戦史家である友人のヘンリー氏にリース中尉がアメリカで健在であることが分かったとき、リース中尉に浜田少尉を撃墜したときの様子を詳しく聞いてくれるように依頼した。
以下がそのときのリース中尉の回答である。
「私は100~150ヤード前方から機銃掃射した。それから我が機を降下させた。浜田機はエンジンから火を吐いていた。浜田機は我機の頭上を通過していった。しばらくすると、だれかが無線で『パラシュートが降下しているぞ』と連絡してきた。我々は引き返した。パイロットは降下中だった。
私はパラシュートのまわりを旋回した。機銃掃射したかった。しかしできなかった。私はミッチェル大佐が率いる戦闘機隊の一員なのだ。機銃掃射したかったのは、真珠湾のことで日本兵には怒りを覚えていたからだ。しかし全て過ぎたことだ。今はもう怒ってはいない」(1995年12月19日、ヘンリー氏よりの書簡による回答)。
ジョン・ミッチェル大佐は1943年4月、ソロモン諸島の前線視察に向かう途中の山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機「一式陸上攻撃機」を撃墜した米軍のロッキードP38ライトニング戦闘機隊を率いた。
ブーゲンビル島上空で待ち伏せ攻撃を受け、長官が搭乗する「一式陸上攻撃機」は撃墜され、山本司令長官は戦死された。余談だが日本海軍の暗号文はすでに米軍は解読に成功しており、長官の出発も筒抜けだった。〔リース中尉が機銃掃射したかったパラシュートは中川少尉か浜田少尉は判然としない〕
大挙して押し寄せるB29爆撃機群に対して邀撃のために防空任務に就いていたのは、陸軍の戦闘機だけではない。海軍戦闘機隊も同様の任務に就いていた。この日、津市久居地区にも早朝から空襲警報が鳴り響いていた。久居森町にある七栗国民学校では朝会の後、児童を防空壕に避難させていた。すると間もなく、北方より米軍P51ムスタング戦闘機の編隊が飛来してきた。忽ち日本軍戦闘機と激しい空中戦をなった。
庄田地区にも沢山の機銃の薬きょうが降り注いだ。七栗国民学校の校庭には機銃弾が何発も突き刺さり炸裂した。P51戦闘機の第15戦闘機大隊隊長、ジョン・ミッチェル大佐は前方に1機の「零戦」を捕捉した。 「零戦」の後方に上昇して照準機の中心に大きくとらえた。前下方を高速で飛行する「零戦」に対してP51の左右の主翼に装備されたそれぞれ3門の「M2ブローニング機銃 12・7ミリ」を連射した。
曳光弾が白煙を発しながら「零戦」に吸い込まれていった。「命中!」。燃料タンクに命中したのであろう、「零戦」は忽ち火炎を吐き出した。機体に描かれた「日の丸」が鮮やかに見える。「零戦」の操縦士はまずスライド式の風防をあけた。「一刻も早く機外脱出をせねばならぬ」。座席のベルトとはずした。上半身を機外に出した。強烈な風圧が体を襲う。眼下の山々や田園風景が加速度を増して迫ってくる。「早く脱出せねば」。
注意しなければならないのは、機外に脱出した時に、水平尾翼や垂直尾翼に落下傘を開かせる開傘索を切られるか、自分の体をぶつけることになりかねない。開傘索を切られれば落下傘は開かない。体をぶつければ当たり具合によっては、それが致命傷になりかねない。10人中2~3名は失敗する。機外脱出の危険性は十分に知っている。「零戦」はますます高度を下げる。火炎は激しくなる。頭を下にして「エイ」とばかり、機外に己の身を放った。 補助傘がまず開いた。しかし主傘は開かず白い布きれのようなものを引きながら「スーッ」とそのまま通称「観音山」の西の谷に吸い込まれるように落下していった。
木々の折れる音がした。パラシュート全体が開くには高度が低すぎたのだ。この空中戦の一部始終をみていた七栗国民学校に駐屯していた海軍兵らが「観音山」目指して一斉に走った。  「急げ、友軍だ」。谷の中のひときわ大きな楠に白い落下傘が見える。現場に着くと、「零戦」の操縦士は地面に横たわっていた。操縦士を七栗国民学校の理科室に収容した。
地内の医師が急遽駆けつけたが操縦士はすでに事切れていた。白いパラシュートに包まれて安置された。 その操縦士は町田次男海軍大尉、海軍予備学生13期、長野県長野市出身、早稲田大学商学部卒業、享年23。大尉は航空決戦が日ごとに熾烈化する中、不惜身命の思いで馳せ参じ、津市香良洲にある「三重海軍航空隊」の営門をくぐった。
ここで飛行技術を学んだ後、兵庫県鳴尾の「332空」の「零戦」の操縦士をして防空任務に就いていた。町田大尉は大正13年8月14日に生を受けた。3人兄弟2人姉妹の次男。昭和18年、兄と弟が相次いで戦死。そして今度は町田大尉が戦死した。父母姉妹の慟哭はいかばかりか。「零戦」の機体は庄田地内の六部塚近くにあった軽便の線路際、牛舎に墜落した。大きな穴があき、機体はその中に突き刺さっていた。
東海軍が処刑したB29の搭乗員は総計38名である。戦後このことが、BC級戦犯を裁いた横浜裁判でも審理された。東海軍の司令官だった岡田資(たすく)中将がその責を問われた。「法戦」を展開するも中将に理なく、B級戦犯として「絞首刑」を宣告され、昭和24年9月17日、巣鴨プリズンの刑場の露と消えた。           (終り)