春、お茶会に出かけると「山花開似錦」の掛け軸を見かける。梅、桃、桜、つつじと次々に変化する山々。日本人でよかったと思うひと時である。津市の桜の開花は例年より十日ほど遅かった。ところが開花宣言の二日後には満開になり随分長い間楽しませてくれた。
四月中旬に京都に出かけた。桜が津と全く同じ咲き加減なのに驚いた。ほとんど散ってしまった木、丁度満開のもの、まだ蕾のものと混在していた。今回の見学先は平野神社、円山公園、清水寺、そして翌日、上賀茂神社とした。
平野神社は平安遷都の際に奈良から遷祀され天皇が行幸した格式高い神社で、現在の社殿は寛永年間に造られたもので、境内には約五十種四百本の桜がある。緑色の花びらのうこん桜、サクランボのような突羽根桜等初めて見る名前がほとんどであった。円山公園と清水寺は着物姿の外国女性が非常に多く、国際化の不思議な現象に複雑な気持ちになった。
京都と士清さんは非常に関係が深い。私はそれも理由で時々京都を訪れる。
士清さんが初めて京都へ行かれたのは十二才の時である。福蔵寺の浩天和尚が
中御門天皇より綸旨を拝受するお供の一行に加わった。父から知人の松岡玄達への手紙を和尚と士清は持参し訪れたが玄達は留守であった。
享保十五年(一七三〇)二十一才の時改めて勉学のため上洛し、松岡玄達から本草学・医学・儒学を学んだ。翌年四月、松岡忠良に垂加神道を学び、また忠良の師玉木正英に入門し「神道許状」を受けた。一七三五年京都の人山下氏と結婚し八月、二十六才で津へ帰った。京都ではお茶、お花も習ったとある。非常に濃密な数年であった。遊学時代に一生の友、川北景楨、竹内式部、唐崎信通に出会った。川北景楨は高田本山専修寺の家臣で津へ戻ってからも様々な点で士清を補佐。竹内式部は公卿に神書(日本書紀)儒書を講じ江戸幕府に京都から追放され、士清を頼って来津し、士清は娘八十子の嫁ぎ先伊勢に匿った。
このことから士清も他参留になってしまう。唐崎信通は亡くなる時十一才の息子の士愛を士清に託した。士清は自分の息子のように士愛に愛情を注いだ。京都を散策しながら、若かった士清がどこをどんなふうに友人たちと歩いていたのか考えを巡らすのは常のことである。
谷川士清が日本で初めて本格的な国語辞典『和訓栞』を編纂したのは皆さんも周知の事。
『和訓栞』でさくらを引くと次のようであった。
(さくら 桜をかりてよめり 神代紀に木ノ花姫ありて伊勢朝熊の神社に桜樹を基霊とし事、古記に見えて桜ノ宮とも称せり、西行の歌あり…紀貫之歌に桜よりまさる花なき花なれハあたし草木ハ物ならなくに…彼岸桜ハ時節をもてよび糸桜ハ形状をもてよべり…)
非常に詳しく六百字程書かれているのを少しだけ抜粋したが、この後の語にさくらいろ、さくらがいが続いた。
つつじはなくさつきがあった。
(さつき 杜鵑花をいふハさつきつつじの略也、此月に咲き立つ故に名くるなり、品類に松島といふハ奥州より出る也…)
次にももを引いてみた。やはり三百字以上詳しく書かれているのを分かり易い部分を抜粋してみた。
(もも 毛桃、漢名同じ、萬葉集にも見ゆ、にがももともいふ、緋桃も漢名なり、 冬桃あり、花ハ単也、博玄か冬桃賦あり、西陽雑爼に西王母桃と名く、我方にて西王母と呼ものハ壽星桃也、一花両實の者をめをとももといふ…紅白相交わるを源平桃といふ…)
現代の国語辞典と比べてみても面白い。
さてこの次はいつ京都を訪れようか。
(谷川士清の会 顧問)