1945年(昭和20年)7月24日朝、I・Sマッケイン海軍中将指揮の第38任務部隊、通称「機動部隊」に所属するアメリカ海軍の航空母艦「ベニントン」は北緯31度30分、東経135度11分付近を遊弋していた。午前10時15分、同空母から第一戦闘機隊所属の13機のグラマンF6F─5ヘルキャット戦闘機が発進した。
各々の戦闘機は左右の主翼の下にそれぞれ3発のHVAR(5インチ=約60㎝)空対地ロケット弾を装備。合計6挺のブローニングM212・7ミリ機銃は標準装備である。
この日の同戦闘機隊の主任務は愛知県の河和航空隊の水上基地を攻撃することであった。

ブロンネル海軍中尉に率いられた13機のF6Fは、まず伊良湖岬のF6F戦闘機群の集結空域を目指した。
この日は曇天のため厚い雲に覆われていた。静岡県榛原郡大井の大井海軍飛行場の南東に陸地を確認するために針路を取り、厚い雲の層の中を4000フィートから8000フィートに上昇した。だが陸地は発見できなかった。
旋回しながら1500フィートまで降下した。それから渥美半島の西側に沿って飛行し続け、三河湾へと右方に向かって針路を取った。
佐久島の南、3マイル付近で3隻の帆船に機銃掃射をくわえ、うち1隻が炎上した。三河湾で旋回して河和水上基地に向かって針路を取り、河和基地攻撃は西方より行った。
高度1500フィートからの急降下で機銃掃射ならびにロケット弾を撃ち込み、攻撃目標地点である飛行機格納庫、兵舎ならびに発電設備にも攻撃を加えた。
基地からは対空砲火があった。O・F・アーチュア少尉の戦闘機は二度目の攻撃の終わり頃にエンジントラブルが発生。それで「ベニントン」に帰艦するまでの間、L・K・ドラコム中尉の戦闘機小隊が彼の飛行の援護をした。
ブロウヘエル中尉とG・J・ブラウン中尉の小隊が愛知県南知多町豊浜に飛行し、そこで1隻の輸送船に機銃掃射を加えたが、与えた損害は少なかったと思われる。

その後、全戦闘機隊は南下すると、三重県鳥羽市の入り江に「第四号海防艦」を発見した。海防艦は相島(現在のミキモト真珠島と権現堂崎)の丁度中間地点に停泊していた。
これを戦闘機隊は見逃さなかった。ただちに全機攻撃態勢に入り、高度6000フィートから攻撃姿勢に移った。急降下の角度は45度から60度。「第四号海防艦」に次々と機銃弾を撃ち込んだ。 「第四号海防艦」の対空兵装は、主砲が八九式45口径12・7センチ単装高角砲2門、機銃は九六式25ミリ3連装が2門(太平洋戦争期日本海軍の対空兵器の代名詞的存在というべき機銃がこの九六式25ミリ機銃である。発射速度260発/分であった)、連装2門、単装8門、九六式13ミリ単装(発射速度300発/分)の計20挺である。
これらを総動員して迎え撃った。グラマンF6Fヘルキャト戦闘機群は機銃掃射後、1000フィート(高度約300m)で離脱した。機銃を固定式に装備した戦闘機では、機銃の射線が一定距離(アメリカ軍では300m、これに対し日本軍は200mというように)で発射した機銃弾が標的に対して集束するように調整してある。確実に機銃掃射の効果を得るためには標的までの距離が集束点の少し前から機銃掃射し、集束点で「離脱」するという戦法をとる。
ブローニングM2 12・7ミリ機銃は装甲弾、焼夷弾、通常弾と曳光弾を一組にして連射する。
装甲弾は2・5ミリの装甲鋼板を、通常弾は厚さ5センチのコンクリートを貫通する威力がある。焼夷弾は命中と同時に火炎を放ち標的物を炎上させる。機銃掃射時間は平均1・7秒だ。
この日の米軍戦闘機も急降下しながら機銃掃射し、すぐさま機首を上げ、1000フィートで離脱している。この離脱は「第四号海防艦」の頭上をかすめるように離脱したことを物語る。アメリカ軍も日本軍の放つ機銃弾の弾幕に肉薄突入して攻撃していたのだ。この日、鳥羽地区には早朝より空襲警報が鳴り響いていた。

「第四号海防艦」の兵装の多さは以前サイパンで敵と戦闘を交えたとき、火力の貧弱さを思い知らされ、その戦訓によって急遽増設され、当時の海防艦としては多いほうだった。
機銃の発射音、硝煙の臭い、F6Fが低空で海防艦の上を飛行する爆音で一瞬にして艦上は文字通り戦場と化した。

その戦訓とは昭和19年6月11日、船団護衛のためサイパンから出撃したおり、午前9時30分より米軍機動部隊の航空機群の攻撃を受け米軍機2機を撃墜したものの、護衛艦2隻及び船団の大部分が撃沈され、その上、戦死者8名、重傷7名、軽傷者22名を出すという惨事である。その時、対空砲火の貧弱さを痛感したのだ。

「第四号海防艦元水測員松永和夫著『心の故郷をたづねて』より戦闘状況を抜粋する。
「24日、正午すぎ、伊勢方面を攻撃した艦載機が洋上を飛行中なのを発見し、『配置につけ』を発令。12時40分頃、敵も本艦を発見し旋回を開始す。12時43分頃、グラマンF6F約10機が本艦左側洋上より後方に廻り突入。『対空戦闘』が発令され交戦。機銃弾弾痕約30、戦死1名、重傷者12名を出す。昭和20年7月24日、鳥羽港にて敵機と交戦、25日戦死。海軍上等兵曹 田中房雄 埼玉。昭和20年7月26日、右戦闘のため戦死。海軍一等兵曹 本間進 新潟」。
第1戦闘機隊の13機のグラマンF6F戦闘機13機は全機2時45分に空母「ベニントン」に帰艦した。
第四号海防艦は昭和19年3月7日、横須賀海軍工廠において竣工、同日引渡式が挙行され横須賀鎮守府籍となり、呉防備戦隊に編入された。
乗員141名。その後同年4月2日、第一海上護衛隊に編入され、日本本土と主に父島方面、八丈島間の商船、輸送船団を米潜水艦及び戦闘機から護衛する任務に就いていた。
昭和20年4月から第四特攻戦隊(伊勢湾部隊)に編入された。5月3日、「第四号海防艦」と「第四四号駆潜艇」の2隻で「兵力部署第一機動掃蕩隊」を編成、以後、担任海域で船団護衛、哨戒、対潜掃蕩に従事する。
「第四号海防艦」は「丁型海防艦」の一種である。その要目(新造計画時)は次の通り、
基準排水量740㌧、公試排水量900㌧、全長69・5m、全幅8・6m、吃水3・1m、主機関(型式×基数)改A型(T)×1、出力2500馬力、最高速力17・5ノット、軸数1、航続距離4500カイリ、燃料搭載量(重油満載)240㌧、爆雷投射器(型式×基数)三式×12、爆雷搭載数(型式×数)三式×120数、電探(型式×数)22号x1数、乗員数(計画定員)141名。
(次号に続く)