菅笠日記抄の碑の前でガイドが説明

菅笠日記抄の碑の前でガイドが説明

阿保西部の常夜灯を見上げる参加者たち

阿保西部の常夜灯を見上げる参加者たち

10月25日、伊賀市の初瀬街道・阿保宿とその周辺で、津観光ガイドネットによる「あなたの知らない街道めぐり わきみちよりみち 初瀬街道2」が開催された。
この企画は、松阪市の六軒と奈良県の初瀬を結ぶ同街道を、津観光ガイドネットの案内のもと、今年から2年計画で長谷寺まで14回に分けて踏破するもの。
今回が初年度の最終回で、伊賀市の隣の名張市で活動するボランティアガイド「おきつも」が協力。「おきつも」はこの日ガイドを務めるために、通常は案内していない今回のコースを下見し、事前学習した。
約100名が参加。近鉄青山町駅に集合し、初瀬街道の阿保宿などを訪ね、近鉄美旗駅まで約10㎞のコースを歩いた。
阿保宿では、ガイドが本居宣長の菅笠日記抄の碑の前で説明。碑からは明和9年(1772)に本居宣長が吉野へ花見旅行をしたとき、ここまで来て川を歩いて渡ったことがわかる。当時、阿保宿は宿場町として相当賑わっていたと思われる。
また、高さ5m9㎝で同街道最大の常夜灯と言われている「阿保西部の常夜灯」の前では、村の安全を祈り有志によって建立された歴史を紹介。参加者は熱心に聴き入っていた。

(前号の続き)
翌7月25日、「第四号海防艦」は午前6時から米軍艦載機の猛攻を受けた。
「14時40分、爆弾が爆雷砲台に命中、二番砲より後部爆砕される。伊勢防本体南方五十メートルに座礁する。戦死者二十一名を出す」。

ここに当日「第四号海防艦」に乗船していた機雷長・寺島健次海軍中尉の手記がある。そのまま引用する。

「敵機の激しい空襲にさらされていた七月二十五日のことである。後部砲台で指示しているうちに、また一機が突っ込んできた。すでに砲術士の高橋少尉(一期予備生徒出身)をはじめ、わが四号海防艦は多数の重軽傷者をだしていた。大いそぎで配置にもどるべく旗甲板にかけのぼったとたん、赤黒い爆発とともに私は艦橋のなかに吹き飛ばされた。薄れゆく意識のなかに、まるで映画のスローモーションのように空中をとんでいく数名の兵の姿があった。すごい爆風である。
また、艦橋左側の連装機銃の指揮をしていた本間兵曹(四期出身下士官)が「しまった!」という声を空間にのこして粉砕したのを、耳にたしかに憶えている。
兵が何か怒鳴っている。探信儀の角で背中を強打した私は、しばらく失神していたようである。手足は動く。右大腿部から血が流れているが、大したことはなさそうだ。立ちあがって旗甲板に出てみると、二番砲から後部がなかった。
艦は大きく傾斜しているものの、まだ沈んでいない。(いま俺は応急指揮官だ)という義務感が、私の気力をふたたび支えたくれた。最後まで頑張ろう。しかし、甲板に一歩出てみて、私は言葉がなかった。甲板はまったくの地獄絵であった。
一面に肉塊や肉片、手足がちらばり、兵たちが倒れ伏している。後甲板にまわれば、二番砲に腸がまきつき、誰のか判別できない戦死者の半身があった。まさに血と肉の海である。
しかもその中で、煙がでて誘爆のおそれがある弾薬かごを海中に投棄している兵や、なおも撃ちつづける砲員機銃員がいた。かろうじて浮かんでいる艦の前半分は鋼鉄のスクラップにひとしかった。
これが戦争の実体である。三十数年たったいま、ようやく口にできる言葉はこれのみである」。(注釈:「二番砲とは船体後尾に備え付けられた45口径12㎝単装高角砲を指す。注釈:同海防艦には船体の後尾に三式爆雷投射機×12、爆雷投下軌条×1、二式爆雷及び三式一型爆雷合計120発を装備。グラマンF6Fヘルキャット戦闘機はAN─M69装甲鋼板貫通爆弾1000ポンド(454kg爆弾を2発搭載している)。

元水測員・松永和夫著『心の故郷をたづねて』よりこの日の戦闘部分を抜粋する。

「本艦を発見した敵機は25日早朝より攻撃を開始。0600対空戦闘開始。グラマンF6F約十五機艦首方向2000米に出現、ついで左右後部にも出現。1440頃、敵爆弾後部爆雷砲台に命中、二番砲より後部は爆砕され、瞬時にして戦死22名、重軽傷21名を出す。浸水傾斜するも、応急処置により沈没をまぬがれる。しかし航行不能をなり、錨鎖を切断し、伊勢防備隊本部(真珠島)南方約50米に座礁する。7月26日~27日、戦傷者手当、合戦準備及び戦死者の火葬を行う。陸に近く、戦傷者を迅速に揚陸、伊勢防備隊医務科の尽力で手遅れによる死亡者がなかった事は幸いであった」。

「元海軍中尉 寺島健次 記」の手記の中にある「第四号海防艦」乗組員の戦死・戦傷死名簿」から関係分を抜粋する。
「昭和20年7・25、鳥羽港にて敵機と交戦中戦死。海軍上等兵曹 濱義美・長崎。海軍一等兵曹 石井良一・千葉。同 今村武志・静岡。海軍二等兵曹 田中三二・同。同 渡部銀治・栃木。同 大内三喜・茨木。同 澤村成夫・同。海軍水兵長 佐藤孝三郎・東京。同 田部井新介・同。 同 天野孝三・同。同 渥美房治・静岡。同 石田信逸・同。同 石倉与治・同。同 山田實・神奈川。同 金島富司夫・群馬。同 橋本勲・北海道。同 山口晃・長野。海軍上等水兵 吉川基立・東京。同 長谷部勝夫・埼玉。同 田村勝美・栃木。同 山崎久義・北海道。昭和20・7・26 右戦闘のため戦死。海軍兵曹長 島村忠造・埼玉」。
(第四号海防艦の船体尾部の破壊状況からして、グラマンF6Fヘルキャット戦闘機が放ったAN─M69─454㎏装甲鋼板貫通爆弾が同艦を直撃した。その際に同海防艦の甲板を貫通し船内で大爆発を起こしたと考えられる)。

同年7月28日、「0740対空戦闘開始、以後3回に亘る敵グラマンF6F約50機による攻撃のため、機銃弾痕数百個、至近弾20数発、ロケット弾直撃3発命中。1345軍艦旗降下。1424沈没」(海軍中尉 寺島健次の手記)

「昭和20年7月28日、命中弾2、至近弾8、機銃弾無数をうけたのち、『総員退去』が命じられ、航海科の先任兵曹が泣きながらマストの軍艦旗をおろしている。艦長はふたたび艦橋に入ったが、それを先任将校がひきずり出してきた。
紅顔の太田少尉(1期予備生徒出身)の顔もドス黒く、硝煙で顔がはれあがった砲術長がいる。みな、力のかぎり戦ったのである。そして午後2時半、艦は横転して沈没していった」。(第四号海防艦機雷長・海軍中尉 寺島健次の手記)

同年8月11日、横須賀にて解散式。同年9月15日 除籍。

戦後、昭和23年6月30日に、「第四号海防艦」が沈んでいるこの海域は鳥羽の重要なボラ漁場であり、網入れの邪魔となりボラがとれなくなった。また爆破引き上げ作業は、食料不足のおり大事な魚であり、漁獲が減少することは鳥羽の漁師にとって大損害で、漁期までに早く作業を終了して欲しい旨の陳情書が東海海運局に提出された。
この陳情書は「鳥羽港真珠島附近ニ沈没セル海防艦 引揚作業促進陳情ノ件」という表題で「三重県志摩郡鳥羽町大字鳥羽 鳥羽漁業会 会長 廣野藤右衛門」が陳情したものである。昭和22年2月1日に、行動不能艦艇(特)に定められる。その後、東海サルベージにより浮揚され、昭和23年6月30日に解体を終了した。
終わり
(津市在住)

10月23日、アスト津4階の会議室で「三重県相続診断士会」のキックオフミーティングが行われた。
(一社)相続診断協会の認定資格である相続診断士。相続税だけが話題になり、遺産相続は誰もが関係ある問題ということが余り知られておらずトラブルに発展するケースも少なくない。
そこで相続診断士は、多岐にわたる問題を理解し、一般への啓蒙活動を行うと共に、相続についてのヒアリングによる相続診断を実施。トラブルを防ぐ「笑顔相続の道先案内人」となることを目的としている。
発起人の小林裕さんらが立ち上げる同会は全国で23番目の設立で来年1月の本格始動にむけ、このセミナーは行われた。発起人の小林裕さんを始め、相続診断士資格の有無を問わず税理士、司法書士、行政書士、不動産販売業者、ファイナンシャルプランナーなど、遺産相続に係わる業界から約30名が参加。
相続診断協会代表理事の小川実さんが、相続診断士の意義などを説明し、意識共有を行った。

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